「生駒」の名字の由来 | |
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■ 生駒(いこま)
【2022/01/11:改編】
# 代表家紋
# 関西地方・東海地方の名字。丹波柏原藩の家老の生駒家は、宇多源氏の出で、六角定頼の長男の義賢の末裔と伝える。義賢の子で大和の安王寺で僧となっていた高一が還俗して織田信雄に仕え、その子の高勝が信雄の妻の実家の生駒氏の名字を賜ったという。【出典】
# 大和国平群郡生駒荘(奈良県生駒市)をルーツとし、藤原氏の出。戦国時代に尾張国に転じ、織田信長に仕えた。江戸時代には高松藩主となったが、後に改易。旗本(交代寄合)で出羽国矢島8000石で再度取り立てられた。【出典】
# 秋田県の生駒家: 矢島藩主。大和国平群郡生駒荘(奈良県生駒市)をルーツとし、藤原氏の出。戦国時代には織田信長に仕え、豊臣秀吉に属し、讃岐一国(17万石)を賜った。関ヶ原の戦いの後には、東軍に属し江戸時代には高松藩主。のちに、生駒騒動で改易されたが後に矢島藩主で復活した。【出典】
・ 矢島藩主。大和国平群郡生駒荘(奈良県生駒市)をルーツとし、藤原姓という。戦国時代に、親正は豊臣秀吉に属し、1587年に讃岐一国17万石を与えられ、関ヶ原の合戦では一族の多くが西軍に属したが、親正の長男の一正は東軍について戦後も引き続き高松藩主となった。四代藩主の高俊の時に家臣の勢力争いから生駒騒動が勃発、1640年に高俊はいったん改易され、改めて出羽矢島(秋田県由利本荘市矢島)で1万石を与えられた。1659年に高俊の遺領は長男の高清に8000石、二男の俊明に2000石を分知され、両者とも旗本になり、高清は交代寄合となって八森(はちもり)に陣屋を置いた。幕末、親敬は新政府軍に与し、1868年に1万5000石に加増されて大名に復帰した。明治時代には男爵。【出典】
# 兵庫県の生駒家: 摂津国兵庫津(兵庫県神戸市兵庫区)の豪商。本家と別家の二家あり、石屋を号して兵庫津魚棚町で煙草仲買などを営んだ。【出典】
# 香川県の生駒家: 大和国生馬荘(奈良県生駒市)をルーツとする。藤原氏の出といい、戦国時代には尾張国に転じ、のちに豊臣秀吉に讃岐17万石を与えられた。【出典】
# 「生駒」の地名
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