岐阜県内の「遠山」の名字の詳細
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■ 遠山(とおやま): 岐阜県の遠山家 

# 岐阜県の遠山家: 美濃苗木藩主藤原北家利仁流で美濃の加藤氏の一族。建久6年(1195年)に加藤景廉が美濃国恵那郡遠山荘(岐阜県)を領して後に遠山氏を称した。苗木遠山氏は遠山七家の一つで苗木城を本拠とした。

・ 美濃国苗木藩(岐阜県中津川市)主の遠山家(1万石)の幕末の藩主の遠山友詳は若年寄を務めた。

・ 遠山家は室町時代には美濃国土岐氏につぐ勢力をもっていた。苗木藩主の遠山友忠・友政親子は織田信長に属し、その後徳川家康に仕えた。江戸時代を通じて苗木藩1万5千石。

・ 美濃苗木藩主藤原北家利仁流で、鎌倉時代に源頼朝に従った遠山景廉が遠山荘(岐阜県中津川市周辺)を領し、遠山氏を称した。【出典

・ 美濃国の苗木藩(岐阜県中津川市)藩主。戦国大名遠山氏末裔。代々、苗木城に拠り、織田信長を経て、1583年に友政の徳川家康に仕え、榊原康政に属した。1600年、関ヶ原の合戦に先立って木曾を攻略し、翌年美濃苗木藩1万521石を立藩。幕末、12代の友禄は若年寄を務めた。明治時代には子爵。【出典

# 岐阜県の遠山家: 旗本の明知遠山家。遠山七家の一つで遠山荘内の手向郷明智(岐阜県恵那市明智町)を領した。北町奉行遠山金四郎はこの系統。

# 美濃国戦国大名藤原北家利仁流で美濃国の加藤氏の一族で、建久6年(1195年)に加藤景廉が美濃国恵那郡遠山荘(岐阜県中津川市周辺)を賜ったという。景廉の子孫は東濃地方に広がって、景廉の子の景朝は恵那郡岩村に拠って遠山氏を称したのが祖。以後、一族は東濃一帯に広がって、戦国時代には嫡流の岩村遠山氏をはじめ、苗木・明知・明照・飯羽間・串(櫛)原・大井の遠山七家が蟠踞していた。戦国時代末期、岩村城主の景任は、実弟の苗木城主の直廉とともに勝幡の織田氏と姻戚関係を結び、一方武田信玄とも誼を通じた。しかし、元亀3年(1572年)に、上洛を目指した武田信玄の配下の秋山虎繁の攻撃を受けて遠山景任は岩村城に籠城したが城中で病死した。織田信長の援軍として五男の御坊丸が派遣されてきたが、まもなく落城した。その際には、景任の未亡人は秋山虎繁と再婚して女城主になった。天正3年(1573年)の長篠合戦で大勝した織田信長勢が岩村城を攻め落として、虎繁と景任の未亡人は捕らえられて岐阜で磔になって、嫡流の岩村遠山家は滅亡した。この間、天正2年(1574年)には武田氏の攻撃で明照遠山家も滅亡。近世以降まで存続したのは、苗木家と明知家の二家であった。苗木家の末裔美濃国の苗木藩主に、明知家の末裔は旗本になった。【出典

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