三重県の戦国史
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■ 三重県の戦国史

# 室町時代、三重県の大部分を占める伊勢国では南部を国司北畠氏が支配し、北部は多くの国衆層の上に安濃郡の長野氏が君臨していた。また、伊賀国では多数の地侍が割拠し、「伊賀惣国一揆掟」を結んで他国からの侵攻に備えていた。【出典

# 明応年間になると、北畠氏が政郷と具方の父子間の内訌が、一族の木造氏長野氏まで巻き込んで争いをおこして、長野氏を味方につけた具方側が勝利して戦国大名となっていった。しかし、これを機に長野氏も桑名に進出、やがて北伊勢を巡って北畠氏と長野氏が争った。天文年間になると近江国六角氏伊勢国に侵攻し、員弁郡や三重郡の国衆層は六角氏の被官になった。【出典

# 永禄10年(1567年)に織田信長伊勢国に侵攻、短期間で北伊勢を支配下においた。そして翌年、再び伊勢に兵を送ると、鈴鹿郡の神戸氏に三男の三七(信孝)、長野氏は弟の信良(信包)を養子にして送り込んだ。永禄12年に木造氏を味方にとりこんだ織田信長は北畠具教の大河内城を攻め、二男の織田信雄北畠氏の養子にすることで和睦した。信雄は天正3年(1575年)に北畠氏の家督を継ぐと、翌年には具教と重臣を粛正し、北畠氏は事実上滅亡し、伊勢国は織田氏の勢力下になった。【出典

# 近江国伊勢国大和国織田氏の勢力下になったのちも、伊賀国天正7年(1579年)の織田信雄の伊賀侵攻を撃退するなど、独立状態を保った。しかし、天正9年に甲賀・信楽・加太・大和の各方面から一斉に侵攻を受けて地侍層が滅亡して、惣国支配は終焉を迎えた。これを天正伊賀の乱という。なお、志摩国では戦国時代末期に九鬼嘉隆が登場して志摩国一国を支配し、のちに織田信長に仕えて水軍を率いて、鳥羽水軍として知られた。【出典

戦国時代とは

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