福井県の戦国史
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■ 福井県の戦国史

# 室町時代の越前国斯波氏守護を世襲した。そのもとで、守護代甲斐氏が勢力を持って、さらに重臣の朝倉氏織田氏がいた。応仁の乱の際に、斯波氏は義敏が東軍に、義廉が西軍になって対立した。守護代の甲斐氏と重臣の朝倉孝景は西軍方として参加したが、孝景は将軍の足利義政と通じて東軍に転じて越前国に帰国し、一乗谷に拠って自立の道を歩み始めた。孝景の没後、子の氏景のときに斯波氏、甲斐氏を降して越前国を統一し、孝景(英林)・氏景・貞景・孝景(宗淳)・義景と五代100年にわたって越前国一国を支配した。貞景は、文亀3年(1503年)に起きた一族の謀反も素早く鎮圧して領国支配を確立、以後全国有数の戦国大名になり、美濃国や若狭国など近隣諸国の要請を受けて出兵したほか、幕政にも深く関与して室町幕府を支えた。【出典

# 一方、若狭国守護一色氏であったが、永享12年(1440年)に一色義貫が将軍の足利義教の命で討たれ、この際に討手をつとめていた安芸武田氏の信栄が一色義貫の遺領を継ぐが、信栄は翌年に亡くなったため、弟の信賢が跡を継いで若狭国の守護となり、若狭武田氏が誕生した。信賢の跡は弟の国信が継ぎ、その子の元信の頃に戦国大名に成長した。永正14年(1517年)には丹後国加佐郡に侵攻して手中にするなど全盛期を迎えた。【出典

# 永禄11年(1568年)に朝倉氏若狭国に侵攻、武田元明が越前国に連れ去られて若狭武田氏は滅亡した。しかし、その朝倉氏も天正元年(1573年)に近江国に出兵した義景が織田信長に敗れて自害して滅亡した。織田信長は朝倉氏の旧臣の前波長俊(のちの桂田氏)に越前国の支配を任せたものの、翌年蜂起した一揆勢に敗れて、一時越前国は一向一揆の勢力下になった。その後、一揆勢は内部分裂して、天正3年に織田信長の再度の侵攻で崩壊、柴田勝家が入部して北ノ庄(福井市)に築城した。【出典

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