富山県の戦国史
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■ 富山県の戦国史

# 室町時代の越中国守護は河内畠山氏だったが、畠山氏河内国に在国していたため、守護代遊佐氏越後国下向した。しかし、その支配地域は砺波郡だけで、射水郡・婦負郡は神保氏が、新川郡は椎名氏が支配した。【出典

# その後加賀国の一向一揆の影響を受けた越中国の一向一揆の力が強まると、これと結んだ神保氏の勢力が強まって、守護の畠山尚順は越後国守護代の長尾能景に出兵を要請、能景は越中国に出陣したが、永正3年(1506年)に般若野の戦いで越中一向一揆・神保慶宗の連合軍と戦って敗死、以後は長尾氏と神保氏の間で抗争が続いた。【出典

# その後、椎名康胤が越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)の従弟の長尾景直を養子に迎えて後ろ盾として、越中一向一揆と結んだ神保氏越中国内を二分して対立した。永禄3年(1560年)に長尾景虎が越中国に侵攻、越中一向一揆を破り、神保長職が立て籠もった富山城を落としたものの、関東諸国からの小田原攻めの要請を受けて一時撤退した。永禄9年に再び越中国に攻め入って神保氏を降した。以後、椎名康胤が越中国で勢力を伸ばすと、今度は康胤が一向一揆と和睦して上杉謙信から離反した。【出典

# 元亀4年(1573年)に上杉謙信が椎名康胤の松倉城を落とし、天正4年(1576年)には越中国を制した。しかし、天正6年に上杉謙信が死去、その跡をめぐって御館の乱が起こると、今度は織田信長が越中国に手を伸ばしてきた。そして、天正10年に織田信長の命を受けた柴田勝家が越中国に入り、本能寺の変ののちには勝家のもとで佐々成政が越中国を統一した。【出典

# 佐々成政柴田勝家に与していたが、賤ケ岳の戦いの後には、豊臣秀吉に降り、越中国を安堵された。しかし、天正12年(1584年)の小牧・長久手の合戦徳川家康方についたため所領の大半を没収され、射水郡・砺波郡・婦負郡は前田利長に与えられた。【出典

戦国時代とは

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