浅野内匠頭
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■ 浅野内匠頭(通称): 「浅野」の名字の由来

・ 1667年〜1701年

・ 諱: 長矩(ながのり)

・ 幼名: 又一郎・犬千代

・ 階位: 従五位下・内匠頭

・ 「江戸城の松の廊下事件」で有名。事件の原因は諸説あるが、賄賂事件は物語の話で、本当は心身症とも言われています。

・ 広島藩浅野家の分家で、播磨国赤穂藩主(5万3500石)。浅野家の初代は浅野長政で、妻は秀吉の妻のお寧の妹。長政の三男の長重が下野国真岡で大名となり、長矩はその子孫。

# 浅野家

# 浅野内匠頭は「松の廊下刃傷事件」で切腹させられたが、他の類似事件に照らすと、浅野家については、減封転封が打倒で、最悪でも数千石の旗本として名跡くらいは残るのが普通だった。しかし、お家断絶になって、旗本としても残れず、一方吉良上野介にはおとがめはなかった。四十七士の討ち入り後、浅野家は旗本として再興し、義士たちの遺族もそれぞれ諸侯に召し抱えられ、一方吉良家はお家断絶になった。【出典

■ 浅野長矩(あさのながのり)【出典

・ 1667−1701年。享年35歳(刑死)。

・ 出身地: 江戸。

・ 肩書き: 大名(赤穂藩主)。

・ 家紋: 浅野鷹の羽紋

・ 播磨国の赤穂藩主の浅野長直の嫡孫として、江戸の浅野家の上屋敷で生まれた。9歳で藩主になって、同年に四代将軍の徳川家綱に拝謁した。14歳で内匠頭の官職を得、以後は朝鮮通信使や公家の饗応役をつとめた。奉答の儀(ほうとうのぎ)は、幕府の年間行事の中で最も格式が高いとされる。1701年に、東山天皇、霊元天皇の勅使らの奉答の儀の饗応準備を進めていた長矩は、その指南役の吉良義央(上野介)を、江戸城本丸の松の廊下でいきなり斬りつけた。その結果、長矩は即刻切腹、赤穂藩はお取りつぶしになった。これに対して激怒した旧臣たちは大石内蔵助を中心に蜂起して吉良上野介を討った。これを、元禄赤穂事件(忠臣蔵)という。


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