伊予小松藩 | |
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■ 伊予小松藩(いよこまつはん): 愛媛県西条市小松町
・ 「小松」の地名。
・ 一柳家1万石・外様・陣屋
・ 西条にあった一柳家の分家。西条の一柳家はその後、播磨国小野に転封。
・ 幕末の藩主は一柳家(江戸時代の徳川家光の時代から幕末まで一柳家が藩主を務めた)
・ 伊予国西条(愛媛県西条市小松町)
・ 小松藩の家老が喜多川家で、世襲で400石。
・ 藩の幹部に佐伯助左衛門、西方右衛門や岡矢右衛門の名がみえる。
・ 天明4年2月9日に、紙の製造原料の「楮(こうぞ)」の密売事件がシルされている。
・ 藩主の母親か側室の女性の内職を中止させたという記録がある。寛政5年8月19日。箸置きを作って売っていたらしい。
・ 小松藩では天明年間以前から、下級武士においては武家以外の農民や商人との縁組みを認めていた。寛政6年6月には幹部級の藩士である石黒甚右衛門の次女を吉田村の順蔵の妻にという縁組みが許可されている。
・ 享保末年の大飢饉の際は、飢えて援助しなければならなかった飢人の数は5424人とある。でも餓死者は1人もでなかった。この飢饉では今治藩で餓死者113人、松山藩で餓死者5705人。
・ 藩主の一柳頼欽は、駕籠で陣屋を出発し、領内の巡視に出かけた。お供は家老代理の竹花堅蔵(正式には竹鼻らしい)、御用人の近藤左源太、免取左軍次など。
・ 幕末に小松藩でも官軍に属して新潟方面の出兵した。 数十名の出兵で、戦死者1名、重傷者1名、軽傷1名。戦後各人に藩から感謝状と金20両が下賜された。北陸の親不知を通る際には「波が打ち上げられた時には岩角に走り、波が引いた時には浜手に下り、大きな岩に梯子をかけて進んだ。岩の上に登っても、波の具合を見定めながら走った。」とある。
・ 小松藩には藩船があった。「秦丸」他1隻。大阪にも行ったから、結構大きな船なんだろうね。しかし、小松藩って1万石。人口は約1万人。今で言うと人口1万人の町が船を持っているようなもんだが。
・ 幕末期の小松藩の公用馬は1頭だけだったので、もう1頭買った。5両2分だったとか。
# 伊予小松藩士:
【参考資料】
・ 小さな藩の奇跡 伊予小松藩会所日記を読む 増川宏一・北村六合光 角川ソフィア文庫
# 在所は周布郡小松陣屋。外様・小藩、1万石。寛永13年、伊予河野氏の庶流といわれる一柳直盛が伊勢(三重県)神戸(かんべ)5万石から伊予国新居郡西条6万8000石へ増転封となったが就封の途中、大坂で病死した。彼の遺領のうち、周布郡・新居郡内1万石を三男直頼が分与され、寛永15年新居郡新屋敷村を開墾、小松と改称して陣屋を構え成立。明治初年の状況は高1万3310石余、正租46666石余、戸数3029、うち士族83・卒族40、人口1万4018、うち士族423(男210)・卒族316(男206)。【出典】
# 小松藩(こまつはん): 伊予国。小松陣屋。一柳家。1万石。控間:柳間。格:無城。位階:従五位下。上屋敷:港区新橋。寛永13年に、伊予西条藩主の一柳直盛が死去した際に、直盛の三男の直頼が分知されて、小松藩をたてた。【出典】
【注意】転封などがあるため、藩主や石高には変化があります。ここでは一例を掲載しています。