江戸時代の週刊誌ネタ | |
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もちろん、当時は週刊誌ではなく瓦版ですが、それに載った話らしい。
松の廊下の背景に塩問題があるとも言われるが、桜田門外の変の背景に牛肉問題があったという。
当時の瓦版によると、徳川斉昭は近江牛が好きだったが、井伊直弼は水戸家への近江牛の販売を禁止した。食い物の怨みは恐ろしい。意趣返し?
しかし、滋賀県人は信心深く、明治時代になっても牛肉を食べることは仏の道に反するとして避けてきた。しかし、そこは近江人。「仏さんの前で食べるから罰があたるとして、仏壇を閉めて食べたりした」という。信心深い近江人が牛肉を売っていた?
話は戻って、松の廊下事件、そして赤穂浪士の仇討ち。これには謎が多いともいう。
まず、浅野内匠頭がなぜに吉良上野介に切りつけたのか?接待の賄賂問題とか、赤穂と吉良の塩騒動とか諸説あるようだ。そして、赤穂浪士の面々が隠れていたのが、江戸の下町ではなく、江戸城の西側の武家地(麹町?)であったらしく、隠れるには不都合では?という疑問もある。
人は人の中に隠せと言うから、下町が良いと思うんだが。
吉良家の屋敷が本所に移ったのは、上野介が高家の職をやめたためということでなんとかわかるが、一説には幕府が討ち入りを後押ししたのでは?という話もあるようだ。
なぜに、幕府が後押し?そもそも、吉良家も徳川家(松平家)も三河が本拠地で、吉良家は清和源氏の足利氏の血統をひく由緒ある家柄。戦国時代には徳川家よりも吉良家の方が数段格上だったようだ。しかし、江戸時代になって立場は大逆転。徳川家は天下の将軍家だが、吉良家は家格が高いとはいえ、一介の旗本(高家)。吉良さん、裏では「徳川将軍家なんていうが、昔は三河の一介のはなたれ小僧だったんだぜ、ワッハッハッハ。」なんて言っていたのかも。
今でも、通じるが、中学校時代の序列を社会人になっても持ち越す例があり、それを嫌って田舎に戻りたくない人もいるらしい。
そして、吉良家と徳川家は矢作川の水利権問題の利害関係があたっともいう。江戸時代になって徳川家は矢作川の流れを変えたらしいが、そのためかそれ以後吉良家の領地では新田開発ができなくなったらしい。