「宮」の名字の由来
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■ 宮(みや)

【2023/07/10:改編】

# 備後国の大族は吉備津神社の社家で桜山氏もこの系統。一族は後に室町幕府の要職にあり、戦国時代豪族を経て毛利氏に属した系統もある。また、安芸・備中にも広まった。他に越後には宇多源氏佐々木氏族、伊勢国の平氏流、美濃・近江の清和源氏流、阿波の藤原姓など各地の豪族にみられる。代表家紋は「吉文字」「五瓜木瓜紋」「片喰紋」。【出典】【家紋のデータ】 

# 備後国品治郡の土豪で、藤原氏の出という。のちに毛利氏に仕え、江戸時代には長州藩士。【出典

# 備後国品治郡の国衆藤原氏の出というが、備後国一宮の吉備津神社の社家の出か・鎌倉時代末期にはいちはやく後醍醐天皇に応じて挙兵した。室町時代には幕府の奉公衆をつとめ、一族は備後国の北部から伯耆国まで広がっていた。惣領家は下野守家で、庶流には久代宮氏と小奴可宮氏がいた。戦国時代には、宮光音は志川滝山城(広島県福山市加茂町北山滝)に拠っていたが、天文20年(1551年)に毛利氏によって落城し、宮氏の主流は滅亡した。また、五品獄城(広島県庄原市東城町)に拠った宮氏は毛利氏に属して、天文2年(1533年)に高盛のときに大富山城を築いて、本拠とした大富山城を西城、五品嶽城を東城と呼んだ。江戸時代には長州藩士。【出典

# 備後国品治郡の国人で藤原姓というが、備後国の一宮の吉備津神社の社家の出か。鎌倉時代末期にはいちはやく後醍醐天皇に応じて挙兵した。南北朝時代、兼信・氏信父子は足利尊氏・義詮に従った。室町時代には幕府の奉公衆になって、一族は備後国北部から伯耆国まで広がった。惣領家は下野守家で、庶流には久代宮氏と小奴可宮氏があった。戦国時代、宮光音は志川滝山城(広島県福山市加茂町北山滝)に拠っていたが、天文20年(1551年)に毛利氏によって落城し、宮氏の主流は滅亡した。また、五品嶽城(広島県庄原市東城町)に拠った宮氏は毛利氏に属し、天文2年(1533年)に高盛のときに大富山城を築き、本拠とした大富山城を西城、五品嶽城を東城と呼んだ。江戸時代には長州藩士。【出典

# 現在は、全国に見られるが、とくに関東地方から新潟県にかけて多く見られる。【出典

# 「宮」のつく名字

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