「はざま」の名字の由来 | |
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■ 狹間(はざま)
【2022/11/29:改編】
# 大分県に多く見られる。豊後国狹間(大分県)をルーツとする。大友親秀の四男の直重が文永の役の恩賞として狹間村を与えられ、狹間氏を称した。【出典】
# 狹間(はざま): 豊後国大分郡の国人。大友親秀の四男の直重が文永の役の恩賞として大分郡阿南庄松富名(大分県由布市狹間町)を与えられて土着。同地は狹間村とも呼ばれたため、狹間氏を称した。1333年に四代の正直は鎮西探題攻めに参陣して本領を安堵され、さらに豊前国御沓村(大分県宇佐市院内町)の地頭職を得た。南北朝時代以降は、代々権現岳城(由布市庄内町龍原)に拠って、大友氏に従った。明応年間に大友氏が豊前国に進出した際には、規矩郡の代官をつとめた。1587年に鎮秀のときに豊後国に侵攻してきた島津家久に降り、翌年にこれを理由に大友氏に誅された。【出典】
# 「間」のつく名字
■ 狭間(はざま)
【2023/04/25:新載】
# 豊後国大分郡の国衆。大友親秀の四男の直重が文永の役の恩賞として、大分郡阿南荘松富名(大分県由布市狭間町)を与えられて土着。同地は、狭間村とも呼ばれたために狭間氏を称した。元弘3年(1333年)に四代の政直は鎮西探題攻めに参陣して本領を安堵され、さらに豊前国御沓村(宇佐市)の地頭職を得た。南北長時代以降は、代々権現岳城(由布市庄内町)に拠って、大友氏に従った。明応年間には大友氏が豊前国に侵攻してきたさいには、規矩郡の代官を務めた。天正15年(1587年)に、鎮秀のときに豊後に侵攻してきた島津家久に降って、翌年これを理由に大友氏に誅された。【出典】
# 「間」のつく名字
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