愛媛県の戦国史
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■ 愛媛県の戦国史

# 室町時代の愛媛県は守護河野氏の支配下にあったが、伊予国の東部は細川氏が支配し、石川郡には備中国守護代石川氏が郡代として入部した。また、伊予国南部では喜多郡を宇都宮氏、宇和郡を西園寺氏が事実上支配した。【出典

# 応仁の乱が勃発すると、河野氏庶流の通春は周防国の大内政弘とともに大軍を率いて上洛して西軍に与する一方、惣領家として在京していた通直は帰国して東軍に属して内訌状態になった。この内訌は惣領家が勝利したが、次第に家臣や国衆層の叛乱がおこって衰退し、毛利氏の支援を受けるようになった。【出典

# 伊予国の東部では阿波国細川氏の家臣であった三好氏が進出、三好氏が土佐国長宗我部氏に敗れると金子元宅が元親と結んで支配した。【出典

# 伊予国の南部では宇都宮氏西園寺氏が自立、さらに土佐国一条氏豊後国大友氏にも手を伸ばして戦乱状態になった。一条氏は宇都宮氏と結んで伊予国に侵攻したが、河野氏毛利氏・西園寺氏の兵に大敗して宇都宮氏は滅亡した。その後、一条氏を降した長宗我部氏が南予に侵攻して西園寺氏を降すと、さらに北上して伊予国の大半を手中におさめた。【出典

# 芸予諸島では、因島・能島・来島の三島を拠点とした村上海賊衆が瀬戸内海の警固・交易などを通じて勢力を伸ばした。特に厳島合戦では村上海賊衆が毛利元就方についたことが勝因といわれる。三島村上氏は相互に歩調を合わせて行動する一方、因島村上氏は大内氏と結んで、来島村上氏は河野氏の家臣になる一方、能島村上氏は独立的な立場をとるなど一体ではなかった。天正4年(1576年)の木津川合戦でも毛利方の水軍として織田方を破ったが、天正10年に来島村上氏が織田方に転じて三島村上氏の結束が崩れた。天正11年には豊臣秀吉が四国に侵攻して制圧。戦後は小早川隆景が入国した。【出典

戦国時代とは

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