伊予国
参考資料・文献 利用上の注意
名字の由来のTop 地名の由来のTop
名字と地名のMenu 旧国名と地名Top

スポンサーリンク
スポンサーリンク

# 旧南海道。

# 現在の愛媛県

# 太閤検地での石高: 34万石。【戦国大名県別国盗り物語 八幡和郎 PHP文庫】

# 延喜式による国力順位(納税額による)【本当は面白い「日本中世史」 八幡和郎】。伊予国は21位。

# いよいよの「イヨ」で、弥(いや)と同じ。発展成長することをはやす言葉で、国や土地の褒め言葉。

# 「良い湯」に由来するという説もある。ちなみに、伊予国風土記によると、聖徳太子が伊予国の温泉に来たという記録がある。

# 室町時代の守護河野氏で道後の湯築(ゆづき)城を本拠とした水軍。

■ 浮穴郡(うけなぐん)
・ 伊予国の郡名。伊予国のほぼ中央に位置し、大部分が石鎚(いしづち)山脈西部の山間部を占め、西は一部が伊予灘に面する。郡名の初見は天平19年の「法隆寺伽藍縁起并流記資財帳」で、法隆寺の伊予国14か所の所領の1つとして「浮穴郡一処」とある。「続日本後紀」に「仁明天皇承和元年五月丙子、伊予国人正六位上浮穴直千継、大初位下同姓真徳等、賜姓春江宿禰、千継之先大久米命也」と伊予国に浮穴直千継という者のいたことを記す。浮穴氏については同書同年に「河内国若江郡人浮穴直永子、賜姓春江宿禰」とあるので、河内(大阪府)・大和(奈良県)地方に蟠居していた浮穴氏の一族が海を越えて伊予国に住みつき、郡名の起源となったものと考えられる。「和名抄」に「浮穴」と記して「宇城安奈(うきあな)」と訓じてあるが、鎌倉中期の「拾芥抄」には「浮名郡」とあり、「うきあな」が「うけな」に転訛したものとみられる。【出典

■ 越智郡(おち)
・ 越智氏の名字の由来となった地名。
・ 越智=小市国(おちこく)伊予の国府があった。ここの国造は物部_氏族で、大三島神社を祀って栄えた。
・ 越智: 奈良県高市郡高取町。飛鳥時代から大和国にみられた地名。越智は小盆地を意味する地形語「穏地」の好字化したものとする説がある。天智天皇6年天豊財重日足姫天皇と間人皇女とを「小市(おち)岡上陵」に合葬、同日に皇孫大田皇女を陵前の墓に埋葬したと見える。すなわち小市岡上陵は皇極(斉明)天皇陵で、その娘間人皇女を合葬し、天智皇女で大海人皇子妃の大田皇女を陵前に葬ったのである。現在の明日香村越に比定する説もある。【出典
・ 越智郷: 室町後期から奈良盆地南部の国民越智氏の勢力範囲を越智郷と称するようになった。越智氏は国民で一乗院門跡坊人。出自については大和源氏宇野氏の一族、物部氏あるいは橘氏であるとする諸説のほか、信州井上氏、伊予河野氏の同族であるともいうが、不詳。【出典
※ 「国民」: 「国人」という表記はよく目にするが、歴史的な場面で「国民」という表記は初見。なにか、特別な意味があるのだろうか?
・ 越智(おち): 愛媛県松山市越智。
・ 越智郡(おちぐん): 旧伊予国や愛媛県の郡名。小市・小千・尾智・乎知とも書いた。


# 平安時代の後期、伊予国は播磨国とともに最高格付けの国だった。

# 続日本紀文武天皇元年(697年): 閏12月7日: 播磨・備前・備中・周防・淡路・阿波・讃岐・伊予などの国に飢饉がおきたので、食料を与えた。また負税(出拳で借りた稲の返済すべき分)の取り立てをやめさせた。

# 続日本紀文武天皇2年(698年): 7月17日: 下野・備前二国が赤烏を、伊予国が白なまり(錫と鉛の合金)を献じた。

# 続日本紀文武天皇2年(698年): 9月28日: 近江国に金青(こんじょう・紺青とも書き、青色の顔料)を献上させた。伊勢国には、朱沙(すさ)・雄黄(ゆうおう)、常陸・備前・伊予・日向の四国には朱沙(すさ)、安芸・長門の二国には金青(こんじょう)・緑青(ろくしょう)、豊後国には真朱(まそほ)を献上させた。(いずれも顔料)

# 続日本紀文武天皇2年(698年): 11月5日: 伊予国が白鉛(そろなまり)を献上した。

# 続日本紀文武天皇3年(699年): 8月21日: 伊予国が白い燕を献じた。

# 続日本紀大宝元年(701年): 8月21日: 参河(みかわ)・遠江・相模・近江・信濃・越前・佐度・但馬・伯耆・出雲・備前・安芸・周防・長門・紀伊・讃岐・伊予の十七カ国にイナゴの発生があり、大風が吹き人民の家屋が損壊し、秋の収穫に被害が出た。

統計表示