島根県内の「尼子」の名字の詳細
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■ 尼子(あまご): 島根県の尼子家 

# 島根県の尼子家: 近江国犬上郡尼子(滋賀県甲良町)をルーツとする。宇多源氏京極家庶流。尼子持久が室町時代に出雲国守護代となった。【出典】 

・ 山陰の戦国大名宇多源氏京極氏庶流。京極高秀の子の高久が近江国犬上郡尼子郷(滋賀県犬上郡甲良町尼子)を与えられて尼子氏を称したのが祖。その長男の詮久は尼子郷を相伝し、二男の持久が出雲国に下向して出雲尼子氏となった。近江尼子氏のその後の活動が不明で、出雲尼子氏は京極氏の下で出雲国の守護代だったとされる。応仁の乱では守護の京極持清が東軍に属して転戦したことから、清定が出雲を守って活躍した。以後、月山富田城(島根県安来市広瀬町)に拠って山陰に大きな勢力を振るった。経久は主家の京極氏から追放されたが、1486年に守護代の塩治氏を討って月山富田城を奪回、大永年間には出雲・隠岐・伯耆西部・石見東部を支配した。経久のあとを継いだ晴久(詮久)は南下して安芸国に侵攻。1541年に郡山城に毛利元就を攻めたが敗北した。1551年大内義隆の滅亡後、再び勢力を回復し、翌年晴久は山陰・山陽合わせて八カ国の守護を兼ねた。その後、1555年に一族の新宮党を討ったため再び衰退、1566年義久のときに毛利氏によって落城、本家は滅亡した。その後、重臣の山中鹿之助立原久綱らが新宮党の遺児勝久を擁立して再起、1569年には海上から出雲に入って新山城に拠ったものの、1571年に毛利氏に敗れて京に逃れた。さらに1578年には播磨上月城で再起を図ったが、毛利氏の大軍に囲まれて勝久・氏久が切腹、山中鹿之助も阿井の渡しで斬られて、尼子氏は滅亡した。末裔佐々木氏改称して、江戸時代には長州藩士。【出典】 

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