岩手県の戦国史
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■ 岩手県の戦国史

# 大永2年(1522年)奥州探題が廃されて室町幕府の管領斯波氏の一族である大崎氏の力が衰え、代わって伊達稙宗陸奥国守護職になったことで陸奥国は事実上の戦国時代に突入した。当時の陸奥国で最大の勢力を持っていたのは三戸南部氏だった。南部氏は鎌倉時代末期に陸奥国糠部郡(※原稿には糠信郡とあるが??)に下向したとされ、嫡流の三戸南部氏と庶流の八戸南部氏に分かれた。三戸南部氏は三戸(青森県三戸町)を本拠に岩手県北部を支配、この他に北部には、一戸氏久慈氏などが勢力をもっていた。【出典

# 一方、南部では大崎氏の没落後も、斯波氏嫡流末裔と伝える高水寺城(岩手県紫波町)の斯波御所家が勢力を持ち、この他には遠野の阿蘇沼氏、和賀郡の和賀氏などがいた。こうしたなか、石巻城(宮城県石巻市)の葛西氏が次第に北に勢力を拡大し、胆沢郡や磐井郡を支配下とした。葛西氏は下総国の出で、清重が源頼朝の奥州攻めで功をあげ、陸奥国に広大な所領を与えられたもので、当時、本拠地を石巻に移した。【出典

# 天正10年(1582年)に南部信直が三戸南部氏の家督を継ぐと、斯波御所家を滅ぼして岩手郡・志和郡を手に入れた。このとき、阿蘇沼氏は南部氏に降る一方、和賀氏は南部氏と対立した。【出典

# 南部信直は早くから豊臣秀吉に接近し、奥州仕置きでは豊臣政権下の大名として認められたが、葛西氏和賀氏は小田原に参陣しなかったことから改易になり、九戸氏などの国衆南部氏の家臣団に組み込まれた。【出典

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