伊達政宗
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■ 伊達政宗(だてまさむね): 諱

# 「伊達」の名字の由来

・ 伊達政宗: 竹に二羽飛雀紋。正室は愛姫(田村清顕の娘)【武将と家紋 インデックス編集部】

・ 1567年〜1636年
・ 神号: 武振彦命(たけふるひこのみこと)
・ 幼名: 梵天丸
・ 通称: 藤次郎
・ 渾名(あだな): 貞山公、独眼竜。
・ 階位: 従三位・権中納言
・ 政宗は農業改革に際して、「御買米仕法(おかわせまいしほう)」という金融制度を用いた。
・ 1600年代半ばには、仙台藩からの江戸廻米(本石米)は年間15万石にも達し、江戸の消費量の20%以上にも達した。

# 仙台藩の初代藩主。1567年に出羽国米沢城主の伊達輝宗の嫡男として生まれた。母は出羽国山形城主の最上義光の妹。

# 貞山堀: 宮城県の仙台空港付近に「貞山堀」という運河がありますが、貞山は伊達政宗のおくり名。

# 天承19年(1591年)に、伊達政宗は豊臣秀吉から「羽柴」の姓を許され、侍従に任ぜられた。

# 慶長13年(1608年)に、伊達政宗は二代将軍秀忠から「松平」の姓を許され、陸奥守に任ぜられた。

# 伊達政宗(だてまさむね)【出典

・ 1567−1636年。享年70歳(病死)。

・ 出身地: 出羽国

・ 肩書き: 武将。

・ 家族: 父:伊達輝宗。母:義姫(最上義光の妹)。

・ 家紋: 竹に雀紋

・ 出羽国(山形県)の戦国大名の伊達輝宗の長男。幼名は梵天丸。幼くして疱瘡のために右目の視力を失った。しかし、輝宗と家臣の片倉景綱からは、知恵と度胸を合わせ持った武将の器であると期待された。11歳で成人して政宗を称し、13歳で田村清顕の娘の愛姫(めごひめ)を正室とし、18歳で家督を継いだ。その後、大内氏畠山氏蘆名氏などの周囲の大名を降して、24歳で奥州66郡のうちの約1/3を治めた。豊臣秀吉の死後は徳川家康に与して、豊臣方の上杉景勝の討伐に出陣。関ヶ原の合戦では、景勝の家臣の直江兼続らと戦った。江戸時代には本拠地を岩出山から仙台に移した。

■ 伊達成実(だてしげざね): 1568−1646年。伊達政宗の重臣として活躍した。1593年に、突如伊達家を出奔したが、上杉景勝徳川家康から配下になるように誘われたが断って、1600年の景綱の説得で帰参した。その後は伊達一門として亘理城主を務めた。【出典

■ 伊達稙宗(だてたねむね): 1488−1565年。伊達政宗の曾祖父。1536年に定めた家法の「塵芥集(じんかいしゅう)」は、戦国大名が定めた分国法では条文が最多という。1522年に陸奥国守護に任ぜられ、その後は勢力を拡大したが、嫡男の伊達晴宗との間におきた内紛で敗れた。【出典

■ 伊達輝宗(だててるむね): 1544−1585年。伊達晴宗の次男。22歳のころに家督を継いで、出羽国米沢城主になったが、北は葛西氏大崎氏、東は相馬氏、南は田村氏蘆名氏最上氏らがお互いに牽制しあう緊張した状態の中で、子の政宗と共に戦った。しかし、1585年に畠山義継との戦いで、降伏したふりをした義継に拉致された。輝宗は家臣に、自分共々義継を銃撃しろと命じ、義継を道連れに死亡した。【出典

■ 伊達吉村(だてよしむら): 1680−1752年。仙台藩の五代藩主。窮乏した藩の財政改革として、貨幣の「寛永通宝」を領内で鋳造、流通させ、また余剰米を江戸に運んで利益を生み出した。和歌、書、絵画にも造形が深く、藩校(後の養賢堂)を開いて学問を奨励した。【出典


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