「たけだ」の地名
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「武田」の名字 「武・竹」の地名
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■ 武田(たけだ): 北海道石狩郡新篠津村にある地区名。明治28年から宮城県人の入地が始まり、翌29年当村の武田甚左衛門が未開地貸付けを受け、小作人を入れて武田農場と称した。

■ 武田(たけだ): 茨城県ひたちなか市(旧勝田市)武田。那珂川下流域に位置する。那珂川に臨む台地に甲斐武田氏の祖武田義清・清光父子の館跡(のち吉田大掾平勝盛=武田七郎の居館)が近年まで所在した。
・ 武田郷: 茨城県ひたちなか市武田。平安時代に常陸国にみられる郷名。「和名抄」では常陸国那賀郡二十二郷の1つ。当郷域は平安中期から吉田郡のうちとなる。源義光の子義清は、当郷に住して武田冠者とよばれた。12世紀はじめ頃の当郷周辺は、吉田神社や吉田清幹・盛幹父子、鹿島神宮中臣氏、それに武田義清・清光父子らが勢力を張り合った地で、「長秋記」大治5年12月30日条に「常陸国司申住人清光濫行事等也」と見えるように、勢力拡張を図る新参の義清・清光らは、吉田神社の社領か鹿島神宮の社領を侵略する行為に出たために、吉田郡の地に隠然たる実力を有する吉田清幹・盛幹に告発されて甲斐国市河荘に配流された。これが甲斐武田氏の祖であるが、清光は源義家の弟義光の孫に当たり、当地は義光―義清―清光と続く武田氏の本貫地と考えられる。【出典

■ 武田(たけだ): 戦国時代に常陸国行方(なめがた)郡にみられた地名。現在の茨城県行方市(旧行方郡北浦町両宿・内宿)周辺といわれる。当地の武田城は応永年間に甲斐の武田信久が常陸国行方郡高家郷に入り、その支配地を武田郷と称して築城したといわれる。もしかして、名字由来の地名か?でも、一説には、その前に武田高信が確認されているという話もある。
(参考) 1352年9月2日の足利尊氏御教書によると、武田式部大夫(高信)宛てに常陸国行方郡倉河郷を下河辺行景に沙汰せよと命ぜられており、1353年3月に武田遠江守高信がこの件に関しての請文を出している。この場合高信は守護代のような働きをしている。

■ 武田(たけだ): 千葉県香取郡神崎町武田。北流して利根川に注ぐ大須賀川西方の丘陵地。字城台には戦国期真里谷武田氏の一族が拠ったという砦跡があり、字登城は千葉殿屋敷跡、一説に天正18年没落した千葉氏本宗の退隠の地ともいう。【出典

■ 武田(たけだ): 山梨県韮崎市神山町。
・ 旧甲斐国武川荘武田。日本武尊の子の武田王(たけだのきみ)に由来する。【出典

■ 武田(たけた): 山梨県韮崎市神山町武田(たけた)。地名の由来は、地形からくる高田が転じ、「たけた」となったという説、伝説の武渟川別命の住地という説などがある。また「国志」には延暦24年岳田王が甲斐守に任ぜられたとあり、岳田王はこの辺りに居館を構え古代岳田氏の祖となったが、岳田は武田と同訓で、のちに甲斐源氏逸見清光の子太郎信義がこの地に入り、その名を継承し、武田氏を称したという。しかし、他説には、新羅三郎義光の子義清ははじめ常陸国那珂郡武田郷におり、武田冠者を称したが、のちに義清とその子清光が甲斐国市河荘に配流され、その子孫が武田を称し、住地が武田になったともいう。多説があり、由来は明確ではないが、武田の地名は戦国期まで明確には現れない。【出典
・ 武田宮地之郷(たけたみやじのごう): 戦国時代に甲斐国巨摩郡にみられた郷名。現在の山梨県韮崎市神山町北宮地付近。当地には武田氏発祥の地として代々武田氏の信仰を集めてきた武田八幡宮が鎮座しており、宮地はこの八幡宮の神領郷として成立したと考えられる。武田氏時代の当郷の様子は不明であるが、武田八幡宮に残る棟札によれば、天文10年父信虎を追放した武田信玄は、国主の地位を不動のものとするという意味も込めて、この年武田八幡宮の造営にかかり、同年12月23日に工事を完成させている。この信玄の造立した本殿は、武田氏隆盛期の遺構として国重文に指定され、往時をしのばせている。【出典

■ 武田(たけだ): 南北朝時代に薩摩国加世田別符にみられた地名。鹿児島県南さつま市加世田武田(たけだ)。

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