鉄道の歴史
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■ 180907: 紀勢本線の全通は昭和34年か。名古屋から新宮まで、特急で4時間か。以前上野から特急に乗って4時間といえば、仙台とか米沢のあたりだよなぁ。結構遠いんだね。

■ 180904: 明治初頭に鉄道を敷設するとき、新橋〜横浜間の2/3は海の中に堤防を築いて、その上を走らせたそうだ。沿線に土地を持つ陸軍や島津藩の反対が原因だそうだが、とすると現在の東海道線のラインが明治初頭の海外線となるわけだね。
明治初頭に東京〜京都間に幹線を敷設するさいに、東海道経路と中山道経路が検討された。それぞれに利点・欠点があるわけだが、結局中山道経由に決定して工事を始めたが、難工事に断念して結局東海道経由に変更したらしい。考えて見ると和宮も中山道を経由したわけだが、NHKのドラマ「一路」をみると、中山道の最大の難所の和田峠、脚色かはしらんが吊り橋を渡っていたものなぁ。和宮の行列は数キロにも渡ったそうだが、あそこを越えるだけでも大変。しかし、和田峠を鉄道で越えるのは大変そうだが、どこを経由するつもりだったのだろう?篠ノ井線経由?個人的には、山梨県から諏訪に至った方が楽に思えるが、昔は小仏峠は難所だったのだろうか?

■ 明治32年に東武鉄道が北千住〜久喜間を開通したとき、途中駅は西新井、草加、越ヶ谷、粕壁、杉戸。  

■ 鉄道技術の日本史 小島英俊 中公新書
# 明治政府は明治2年11月10には鉄道建設の閣議決定をしていた。
その契機になったのは
 )詼に来日した外国人が、日本に鉄道模型を持ち込んだ。
ロシアが佐賀藩に、アメリカのペリーが幕府に、フランスが長州藩に。
◆〕学として入ってきた鉄道情報。
 外国に渡航した日本人が、現地で実際に鉄道を見、そして乗ったこと。とくに長州藩の井上勝はイギリスで鉄道工学を学んできた。
# 日本における鉄道建設には、外国人の指導助言により、明治政府が鉄道を建設・運営する方法と、外国人が日本国内に鉄道を建設して運営する方法があったが、明治政府は日本の植民地化を避けるために、イギリスの協力で独自で行うこととした。
# 明治4年、井上勝が鉄道頭(てつどうのかみ)に就任した。
# 明治12年、日本人初の機関士が3名誕生した。
# 日本人だけで鉄道建設を行ったのは、明治11年に始まった京都〜大津が初。
# ロシアのシベリア鉄道建設において、最初に雇用したロシア人、朝鮮人、中国人労働者は能率が悪く建設に向かなかったので、日本人労働者を雇用した。
# 日本人だけで初めて完成させた鉄道トンネルは明治13年に完成したねは東海道線の京都〜大津間の逢坂山トンネル(665m)。
# 明治34年、八幡製鉄所の創業。
# 1910年代にレールやSLの国産化、1920年代に電車の国産化。
# 明治23年、ボギー客車の導入。
# 明治33年、寝台車の導入。
# 明治44年の国鉄の車両数
機関車 2467 内国産134(5%)
客車 6652 内国産5157(78%)
貨車 39749 内国産29763(75%)
客車や貨車は、下回りを除いて木製が多かったので国産化が早かった。
# 大正14年の連結器事故による死者は537名。当時は、リンク式連結器で、連結や切り離しが面倒な上、危険だった。
# 大正14年7月に、自動連結器に一斉交換した。
# 正和10年、柴田式密着連結器の導入。
# 1980年代から、三相交流モーターが登場した。三相交流モーターは直流モーターよりも、構造が簡単で、整流子とブラシを使わないので高速回転が可能。また、故障も少なく、メンテナンスも楽。同じ出力を得るのに、交流は小型化が可能。
# 三相交流モーターの実用化は半導体やIT技術の進歩によってなされた。
# 三相交流モーターは1982年に熊本市電の8200形で初めて導入された。新幹線では平成4年(1992年)の300形から導入。
# 日本における、鉄道車両の軽量化は昭和30年代から始まった。アルミボディの採用は昭和37年の山陽電鉄の2000形が最初。
# 自動信号機の登場は明治35年、甲武電鉄の飯田町〜中野間。大正13年(1924年)には国産化。

■ 日本鉄道物語 橋本克彦 ゼロメガ
# 関西本線は旧関西鉄道。
# 関西鉄道の汽車課長だったのが、島安次郎。
# 汽車のあらゆる夜間照明は明治30年代前半まで石油ランプが主力だった。世間が列車内の暗さを嫌い始めている。そこで導入したのがピンチ式ガス灯。ピンチ式ガス灯の原料は未精油の原油。原料の石脳油は新潟産。
# 当時の表定速度は30キロ代なかば。最高速度は約80キロ。
# 明治31年島安次郎は車軸発電による電灯を投入。
# 島安次郎は明治時代を中心とした鉄道技術者で、新幹線の開発にかかわった島秀雄は長男、台湾新幹線に関わった島隆は孫。
# 島安次郎は明治3年に和歌山市の薬種問屋に生まれた。屋号は島喜。場所は、城下の北の西本願寺鷺森別院(御坊)の門前。和歌の浦保命散も売っていた。
# 日本が狭軌を選択した理由: 明治初頭に鉄道を推進した大隈重信が、英国人から「ゲージはどうするか?」と聞かれが、大隈はゲージという言葉も、そのもつ意味も知らなかった。英国人の説明にたいして、大隈は「我が国は土地も広くないから、狭いのでたくさんだ。そして鉄道は2〜3千哩(マイル)あれば充分だと思った。」しかし、後に大隈重信は「狭軌にしたのは吾が輩の一世一代の失敗だった」と語っている。
# プチャーチンもペリーも日本に蒸気機関車の模型を持ち込み、ペリーは横浜の応接所で実際に走らせ、日本人がまたがって乗った。その後、オランダの図面をもとに佐賀藩、福岡藩、薩摩藩、加賀藩などが模型の製作に成功した。
# イギリスの鉄道の負の遺産: イギリスの物流は運河から鉄道に移行。運河では船は荷主の所有で運河の通行料を払った。鉄道に移行した際にも、貨車は荷主の所有だった。そのため、真空ブレーキ、空気ブレーキ、自動連結器といった先進技術への投資が遅れ、1948年の国有化まで、貨物列車のスピードは50キロ程度。
# 関西鉄道は明治21年に、前島密を創業社長に迎えて創設された。

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