滋賀県の戦国史
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■ 滋賀県の戦国史

# 近江国は代々六角氏守護をつとめ、応仁の乱では当主の亀寿丸(のちの高頼)が幼少であったため、庶流の山内政綱が後見人になって西軍に属した。すると、一時六角家の当主もつとめた一族の政堯が江北の京極勝秀とともに東軍に属して六角氏の観音寺城を落城させ、文明元年(1469年)には勝秀の子の持清が守護になった。このため、高頼は帰国して守護職を奪い返すと、延暦寺領や幕府奉公衆の所領を押領したため、長享元年(1487年)に、将軍の足利義尚が近江国に侵攻し、高頼は甲賀に逃れて甲賀五十三家といわれる国衆層と結んで長期戦となった。義尚は遠征の最中に陣中で死去したが、跡を継いだ義材も近江国に再度遠征し、山内政綱を討って近江国を制した。ところが、その義材も管領細川勝元のクーデターで将軍職を追われ、六角高頼は美濃国守護代の斎藤利国の支援を得て、守護となっていた山内政綱の子の就綱を追放して、守護に復帰した。【出典

# こうして、六角氏が京の中央政権と深く関わっている間に京極勝秀は江北を支配していたが、勝秀の没後に内訌状態になって、これを制した高清が家督を継いだ。その後、叔父の政経・材宗父子との内訌や、上坂景重の叛乱も鎮圧したものの、この争いで弱体化し、代わって浅井氏が台頭してきた。浅井氏の傍流から本家を継いだ亮政は、大永5年(1525年)に京極氏被官に際して、京極高清を小谷城下に迎えてその実権を握ると、子の久政は北近江の国人層を自らの被官として京極氏から独立した。久政は六角氏に従っていたが、子の長政は六角氏から独立して織田信長と結び、湖西や湖東にまで勢力を広げた。しかし、元亀元年(1570年)に織田信長に叛旗を翻したため、天正元年(1573年)に小谷城で敗れて自刃して滅亡した。これに同調した六角義賢も信長に屈して、近江国は信長の支配下になった。【出典

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