宮城県の戦国史
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■ 宮城県の戦国史

# 室町時代後期になると、福島県伊達郡を本拠とする伊達氏が宮城県南部に進出して、名取・柴田・刈田・伊具の四郡を支配した。一方、岩手県域を本拠とする葛西氏が登米郡の登米氏や桃生郡の山内首藤氏を降して宮城県北東部を支配した。そして、奥州探題大崎氏は、勢力が衰えながらも、加美・志田・遠田・玉造・栗原の五郡を領していた。そして、両者の間には留守氏国分氏などの国衆層が割拠した。【出典

# 大永3年(1523年)に伊達稙宗陸奥国守護になり、奥州探題として奥州の支配体制を敷いていた大崎氏が没落。さらに稙宗は葛西晴重、大崎義直に跡継ぎを送り込むなど、勢力を広げていった。天文11年(1542年)に稙宗とその子の晴宗の内訌が勃発し、県内の諸氏の多くが稙宗方についたものの、晴宗が勝利した。そして、天正16年(1588年)から翌年にかけて葛西氏と大崎氏が相次いで伊達政宗に降り、その間にいた国衆層も国分氏が出奔した他は軒並み政宗に降って、事実上伊達氏が統一した。【出典

# 天正18年(1590年)、伊達政宗は小田原に参陣中の豊臣秀吉のもとを訪れ、豊臣大名として領地を安堵された。この際、大崎氏葛西氏伊達氏の家臣ということで参陣しなかったが、秀吉はそれを認めず、奥州仕置きでは両者は独立した大名でありながら参陣しなかったとして、所領を没収された。これを不満として旧大崎領と旧葛西領で一揆がおこり、関与を疑われた伊達政宗が一揆勢を平定した。豊臣秀吉による奥州再仕置きが行われ、政宗は本領の伊達郡をはじめ、会津、信夫、長井などを没収され、代わりに大崎・葛西両氏の旧領を与えられ、宮城県域のほとんどは伊達政宗の領地になった。【出典】 

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