板倉勝重
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■ 板倉家(いたくらけ): 「板倉」の名字の由来

■ 板倉伊賀守勝重 (かつしげ): 

・ 江戸町奉行京都所司代

・ 大岡政談のモデルとなった名奉行。

・ 徳川家康は関東入国時に、駿府町奉行だった板倉勝重を江戸町奉行とした。

・ 板倉勝重は板倉家の次男で幼少期に出家したが、父親や跡継ぎが討ち死にして、お家断絶となるところ、家康が勝重がいることを知り、還俗して1581年に召し抱えた。その5年後に駿府町奉行。

【江戸の名奉行 43人の実録列伝 丹野顯 文春文庫】

■ 板倉勝静(かつきよ): 安政の大獄に際して、大老井伊直弼が反対派を処罰するのを諫めたため、寺社奉行を罷免された。勝静は1823年に伊勢国桑名藩主の松平定水の八男に生まれ、そのご備中松山藩の板倉勝職(かつつね)の養子となり5万石の藩主となった。その後寺社奉行となった。直弼の死後に再抜擢され、大政奉還時には老中を務めた。

・ 板倉勝静(いたくらかつきよ): 1823−1889年。備中松山藩主で、松平定信の孫。藩政改革に成功して、幕府の寺社奉行になったが、井伊直弼と対立して罷免された。直弼の暗殺後に老中になり、大政奉還にも尽力した。戊辰戦争では、小笠原長行と共に、奥羽越列藩同盟の参謀として、新政府軍と函館五稜郭まで戦った。このときに、備中松山藩では戦いを避けるために養子を迎えて、新藩主を立て、勝静はやむなく降伏を決意した。晩年は上野東照宮の神官をつとめた。【出典


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