(備中)松山藩 | |
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■ (備中)松山藩(びっちゅうまつやまはん): 岡山県高梁市
・ 「松山」の地名。
・ 1744年に板倉家が入封。
・ 小堀政一(遠州): 備中国松山藩主。享年69歳。遠州流茶道をはじめ、千利休、古田織部とともに「三大茶人」と言われた。小堀遠州は1579年に、近江国小堀村(滋賀県長浜市)の出。父親は浅井家の地侍で、母親は浅井家の家老の磯野丹波の娘。浅井家が滅亡後、と秀長に仕えた。遠州は秀長の養子の秀保に仕えたのち、秀吉に仕えた。
・ 幕末の藩主、板倉勝静は老中として、鳥羽・伏見の戦いの時には徳川慶喜と共に大坂城にいた。【江戸300藩の意外な「その後」 日本博学倶楽部 PHP研究所】
# 備中松山藩(びっちゅうまつやまはん): 備中国。松山城。板倉家。譜代大名。5万石。控間:雁間。格:城主。位階:従四位下。上屋敷:千代田区霞が関。元和3年(1617年)に、池田長幸が因幡鳥取から入封して立藩。水谷家、安藤家、石川家を経て、延享元年(1744年)の板倉勝澄から板倉家が続いた。明治2年に高梁藩に改称。【出典】
【注意】転封などがあるため、藩主や石高には変化があります。ここでは一例を掲載しています。