江戸時代の生活
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■ 江戸時代の医療
# 江戸には御典医、藩医、町医者がいた。安政年間の町医者の診察料は金1分から2分で25000円〜50000円。往診料は初回が1分1朱、それ以後は毎回1分。距離によっては駕籠代も。1里までは2分、2里で1両、3里以上は5両。薬代は3日分が1分で7日分で2分。(1両は約10万円)。

■ 江戸時代の貨幣経済

■ 江戸時代の教育
# 寺子屋: 安政年間。机と硯箱が250文(6250円)から270文(6750円)。筆は1本4文(100円)、墨1個が12文(300円)、半紙1帖(20枚)で8文から12文。

■ 江戸時代の健康
# シワには、豚の爪を洗って米のとぎ汁で煮て、とろりとした液体を顔に塗って寝るといい。【日本人なら知っておきたい 江戸の庶民の朝から晩まで 歴史の謎を探る会編 KAWADE夢文庫】

■ 江戸時代の娯楽
# 江戸時代の本代: 子供用の絵本は「赤本」と呼ばれたが、宝暦年間で1冊5文(約125円)、享和年間には10文(約250円)。
# 旅: 弘化2年(1845年)に、今の世田谷に住む百姓が、伊勢から宮島方面に旅行したとき。
・ 六郷の渡し: 15文(375円)
・ 草鞋1足: 20文(500円)
・ 戸塚宿: 1泊200文(5000円)
・ 3か月の旅代は、総額で5両2分(約55万円)

■ 江戸時代の仕事
# 当時の大工の手間賃は1日500文(約12,500円)。
# 労働時間: 大工などの職人の1日の労働時間は朝の六つ半(午前7時)から夕方の七つ半(午後5時)までだったが、午前10時、昼食、午後2時の休みがあり、実質8時間だった。また冬季は時間が短いので実労は4時間程度。
・ 住み込みの番頭や手代は午前8時から午後7時まで。
・ ある饅頭屋などは七つ(午前4時)から夜の四つ(午後10時)まで働いた。この七つと四つを合わせて「十一屋」と称した。

■ 江戸時代の住生活
# 江戸時代、町方の7割は長屋住まいだった。
・ 表長屋: 2階建ての1棟に、間口が2間、奥行き4間半などの家が3〜5軒連なっていた。店舗兼住宅。1カ月の店賃は文政年間で根津のあたりで2分2朱(4分で1両、16朱で1両)。1両10万円計算で約62,500円。
・ 裏長屋: 九尺二間。間口が9尺、奥行きが2軒で約3坪。店賃は文政年間で1カ月800文から1000文。約2〜25,000円。
# 廃棄物の処理: 江戸時代の汚物は近隣の百姓が肥料として回収したが、その値段は品質によって異なった。大名屋敷、武家屋敷、町屋はそれぞれに食事の内容が異なったので。その代金は大家のもので、裏長屋の糞尿代は江戸時代後期の前半で、1年分が大人10人あたり2分か3分。30人の住む長屋だと約2両(20万円)。
# 江戸時代には、敷き布団はあったが掛け布団はなかった。上方では元禄年間から掛け布団を使ったが、江戸では夜着(よぎ)にくるまって寝た。夜着とは大きめのドテラのような物。

■ 江戸時代の食生活
# 1日3回白米食が庶民に普及したのは元禄年間
# 薬食い: 天武天皇5年(676年)に、牛、馬、犬、猿、鶏などを殺生して肉を食べることを禁じた。その風習は長く続いた。しかし、例外として「薬食い」として病気の時に獣肉を薬とすることが許された。  
# 江戸時代初期までは、味付けの中心は塩、酢、味噌だったが、それ以降醤油、砂糖、みりん、かつおぶしなどが普及した。日本人なら知っておきたい 江戸の庶民の朝から晩まで 歴史の謎を探る会編 KAWADE夢文庫】
# 将軍が食べられない物
・ イワシ、フグ、マグロ。ヒジキ、ワカメ。アサリ、シジミ。ネギ、ニラ、ラッキョウ、カボチャ。「以下物」といって格下の食べ物と思われていた。【日本人なら知っておきたい 江戸の武士の朝から晩まで 歴史の謎を探る会編 KAWADE夢文庫】

■ 江戸時代の風俗

■ 江戸時代の法律
# 交通事故: 馬の暴走や荷車の事故などのいわゆる交通事故。江戸幕府は当初処罰はしなかったが、人口の増加とともに交通事故も増え、八代将軍吉宗は享保元年(1716年)に、過失の事故でも死亡事故の加害者は流罪と定めた。

■ その他
# 銭湯の代金は寛永年間から明和年間の約150年間、大人6文、子供4文。大人で約150円、子供で100円。寛政6年からは大人10文、子供6文。二階座敷の休息代が8文(200円)、菓子代8文。
# 江戸の町には町年寄、町名主、町役人がいた。寛政年間には江戸には252人の町名主がおり、年収は52両から66両くらい。
# 江戸時代に嫁をもらうと持参金がついてきた。持参金は通常5〜10両。
# 蛇の目傘1本は約12500円。番傘は200〜300文で5000円から7500円。
# 時の鐘
・ 日の出の明け六つなどの鐘をうつ仕事で、有料で金が聞こえる範囲から料金を徴収していた。長屋人などの借家人は支払わなかったというが、大家が払った?
・ 元文3年(1738年)の一例では1か月に1軒あたり4文(100円)を徴収していた。1年間の収入は約90両(900万円)というが、鐘つき人を5人雇っていたので、その人件費などの経費が約41両(410万円)かかった。
# 町駕籠: 正徳3年(1713年)に江戸には1800挺の町駕籠があった。天保年間の料金は、日本橋から吉原大門まで二朱(1/8両)くらいで12500円くらい。
# 浪人: 浪人は当初は牢人と書いた。これは「牢籠人(ろうろうにん)」の略で、牢籠とは「苦しみ悩む」という意味。また「牢に押し込める」という意味もあったため、浪人と書くようになった。

【参考: お江戸の意外な生活事情 衣食住から商売・教育・遊びまで 中江克己 PHP研究所】


■ あさらけき: 鮮らけし(あざらけし)=新鮮な。【武士の絵日記 幕末の暮らしと住まいの風景 大岡 敏昭 角川ソフィア文庫】

■ 江都(えど)=江戸。【武士の絵日記 幕末の暮らしと住まいの風景 大岡 敏昭 角川ソフィア文庫】

■ 金1両は米1石(150Kg)で約10万円。【江戸のうんちく 社会と生活 大石学 角川ソフィア文庫】

■ 言葉遣い
 江戸時代、同じ武士でも階級によって、言葉使いが違った。
・ 自分を指す言葉: 
・ 身供(みども): 武士が自分を指す言葉として一般的だった。
・ それがし: 武士がよく使った。
・ 拙者(せっしゃ): 
・ 将軍家光は「おれ」と言った。「おれ」は、大名や大身の旗本の他、医者、儒者、町人も使った。【江戸のうんちく 社会と生活 大石学 角川ソフィア文庫】

■ 宿酒: 二日酔いのこと。【武士の絵日記 幕末の暮らしと住まいの風景 大岡 敏昭 角川ソフィア文庫】

■ 商家の奉公人
・ 江戸時代の商家では、幼年期に丁稚奉公し、昇進していく事例が一般的だった。丁稚奉公を始めるのは11〜12歳ころが多く、14〜15歳ころが上限だった。18〜20歳ころに手代となり、給金が支払われるようになった。【江戸のうんちく 社会と生活 大石学 角川ソフィア文庫】

■ 小便専用の便所は室町時代末期の三好筑前守の屋敷において、将軍が御成(おなり)の建物に初めて作られたが、江戸時代の後期になって広く普及した。【武士の絵日記 幕末の暮らしと住まいの風景 大岡 敏昭 角川ソフィア文庫】

■ 八杯豆腐: 江戸時代の庶民の人気料理。水4杯、醤油2杯、下げ幅2杯の出汁で、拍子木の形に切った豆腐を煮たもの。【武士の絵日記 幕末の暮らしと住まいの風景 大岡 敏昭 角川ソフィア文庫】

■ 水走り(みずはしり): 忍藩。江戸時代、台所の流しのことを「水走り」と言った。【武士の絵日記 幕末の暮らしと住まいの風景 大岡 敏昭 角川ソフィア文庫】

■ 届別(りゅうべつ): 旅立つ人が後に残る人に別れを告げること。【武士の絵日記 幕末の暮らしと住まいの風景 大岡 敏昭 角川ソフィア文庫】

■ 武士の住まいは藩主から拝領したもので、藩の作事方が取り仕切った。屋敷は賃貸禁止。上杉家が会津120万石から米沢30万石に転じてきた当初は、城下町の整備がなされておらず、家臣は仮小屋に住んだ。9年後に屋敷割りが行われ、宅地が支給されたが、住まいは藁葺き屋根、よしずを部屋の間仕切りとし、床は藁と筵(むしろ)を敷いただけの土間住まい。【武士の絵日記 幕末の暮らしと住まいの風景 大岡 敏昭 角川ソフィア文庫】

■ 中下級武士の家の特徴
・ 必ず座敷と茶の間があった。座敷には床の間があり、押し入れや違い棚がある。座敷は客間であり、主人の日常の居場所であり、書斎である。茶の間は家族の集まりの場所。【武士の絵日記 幕末の暮らしと住まいの風景 大岡 敏昭 角川ソフィア文庫】

■ 東日本の住まいの茶の間は広かったが、西日本の茶の間は狭い。【武士の絵日記 幕末の暮らしと住まいの風景 大岡 敏昭 角川ソフィア文庫】

■ 閉門(閉戸): 閉門という言葉はよく聞くが、中下級武士の家には門がないので、「閉戸」と言ったのか?

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