茨城県内の「佐竹」の名字の詳細
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■ 佐竹(さたけ): 茨城県の佐竹家 

# 茨城県の佐竹家: 清和源氏源義光の子孫。義光の子の義業が常陸国佐竹(茨城県常陸太田市)を本拠とし、佐竹氏を称した。【出典】 

・ 佐竹氏: 常陸国の戦国大名清和源氏の出。源義光は兄の義家を援けて常陸介となり、子の義業が下向して常陸国久慈郡佐竹郷(茨城県常陸太田市)を領した。義業の子の昌義は佐竹氏を称し、常陸国北部に勢力を広げ、昌義は奥七郡(那珂東・那珂西・佐都東・佐都西・久慈東・久慈西・多珂)を領した。1180年に源頼朝が挙兵した際、佐竹隆義は京都で平氏に従っていたことから、在国の秀義は金砂山(かなさやま)城に拠って頼朝に抗したが敗れ、奥七郡を没収された。1189年の奥州藤原氏討伐の際には秀義が頼朝に仕えて功をあげて、所領の一部を回復して御家人に列した。南北朝時代に貞義は北朝に属して、1336年に常陸国の守護となり奥七郡を回復し、以後常陸国の守護を世襲した。多くの庶子家を分出して惣領制を確立、また上杉憲定の子の義仁(義憲)を養子に迎え、関東管領上杉氏と結んだ。義篤は下野国の那須氏の内紛に乗じて下野国那須地方に進出、その子の義昭は常陸国南部の小田氏を攻めるなど、戦国大名として発展した。1567年に義重の時には奥州南部まで勢力を広げ、子の義宣は江戸氏大掾氏を滅ぼして水戸に移り、豊臣政権下では54万石を領した。関ヶ原の合戦のときには、義宣は石田三成と親交があったため西軍に属し、徳川家康の会津攻めを背後から討とうとしたが果たせず、戦後出羽国久保田(秋田市)20万5000石に減じて転封となった。【出典】 

# 常陸国戦国大名清和源氏の出。後三年の役に際して源義光は兄の源義家を助けて常陸介になり、子の義業が下向して常陸国久慈郡佐竹郷(茨城県常陸太田市)を領した。義業の子の昌義は佐竹氏を称し、常陸国北部に勢力を広げ、昌義は奥七郡(那珂東・那珂西・佐都東・佐都西・久慈東・久慈西・多珂)を領した。源頼朝が挙兵した際、佐竹隆義は京都で、平家に従っていたことから、在国の秀義は金砂山城に拠って頼朝に抵抗したが敗れ、奥七郡を没収された。文治5年(1189年)の奥州藤原氏の討伐の際に秀義が頼朝に仕えて功を成し、所領の一部を回復して御家人となった。南北朝時代、貞義は北朝に属して常陸国の守護となり奥七郡を回復。以後は常陸国の守護を世襲した。多くの庶子家を出して惣領制を確立。また上杉憲定の子の義仁を養子に迎えて関東管領上杉氏と結んだ。しかし、一族の山入氏の叛乱によって、延徳2年(1490年)には義舜は太田城を奪われて大山城に逃れた。永正元年(1504年)に岩城常隆の支援を得て太田城を奪還、永正3年に山入氏を討伐した。さらに白河結城氏を攻めて旧領を回復するなど佐竹氏中興の祖といわれる。義篤は那須氏の内紛に乗じて下野国の那須地方に進出、その子の義昭は常陸国南部の小田氏を攻めるなど、戦国大名として発展した。永禄10年(1567年)に義重のときには奥州南部まで勢力を広げ、子の義宣は江戸氏大掾氏を滅ぼして水戸に転じ、豊臣政権下では54万石を領した。関ヶ原の合戦の際、義宣は石田三成と親交があったため西軍に与し、戦後は出羽国久保田秋田市)に減転となった。【出典

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