山形県内の「最上」の名字の詳細
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■ 最上(もがみ): 山形県の最上家 

# 山形県の最上家:  旧山形藩主清和源氏斯波氏の出で、延文元年(1356年)に斯波家兼の二男の兼頼が出羽国最上郡(現在の村山郡)に転じたのを祖とする。関ヶ原の戦い江戸時代には出羽国山形57万石。後に改易となった。取りつぶし後、近江国大森(滋賀県東近江市)1万石、後に高家5000石。

# 山形県の最上家: 出羽国戦国大名清和源氏斯波氏の一族で、延文元年(1356年)に斯波家兼の二男の兼頼が出羽国最上郡に入部し、翌年に山形城を築城しそこを拠点に北朝方で活躍し、最上氏を称した。関ヶ原の戦いの後には、出羽国山形57万石。1622年にお家騒動で取りつぶし。最上義俊近江国と三河国で1万石へ。最上義俊は近江国大森(滋賀県東近江市蒲生大森町)に陣屋をおいて大森藩を立藩。1631年に5千石に減らされて、旗本交代寄合。【出典

# 山形県の最上家: 清和源氏斯波氏の一族で、戦国時代から江戸時代初期の出羽国の大名。当初は山形氏を称し、後に最上氏を称した。戦国時代に、最上義光は天童氏、庭月氏東禅寺氏などを滅ぼして、庄内地方を統一した。関ヶ原の戦い後、出羽国山形で57万石。1617年にお家騒動を発端に改易となる。【出典】 

# 出羽国戦国大名清和源氏斯波氏の一族。延文元年(1356年)に斯波家兼の二男の兼頼が出羽国最上郡(現在の村山郡)に入部したのが祖。翌年には山形に城を築き、以後は山形城を拠点に北朝方で活躍、やがて最上氏を称するようになったというが、「余目氏旧記」には「山形殿」とあるなど、当初は山形氏を称していたともされる。
※ 鎌倉殿と同じ呼称ではないのだろうか?
天正2年(1574年)に当主の最上義光に対して、父の義守が女婿の伊達輝宗庶流天童氏らと結んで挙兵(天正最上の乱)、結局和睦したものの、以後義光は伊達氏の影響下から脱して、戦国大名となった。義光は天正12年(1584年)には白鳥氏寒河江氏、天童氏などを次々と滅ぼして庄内地方を統一、
※ 白鳥、寒河江、天童氏は旧最上郡(現村山郡)の武将で、それを滅ぼして庄内地方を統一とはどういうことなのだろう?
天正18年(1590年)の豊臣秀吉小田原攻めには遅参したものの、徳川家康の取りなしで事なきを得た。【出典
 
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