幕末の会津の戦いの背景
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■ 150930: 幕末の会津の戦いの背景

幕末の騒動を踏まえて、よく「会津藩士は会津人じゃなく信州人で別物だ」と言われる。

たしかに、会津藩の祖の保科正之は信州高遠藩をルーツとするし、保科の名字はたしか長野市の地名をルーツとしたはず。しかし、考えて見ると保科家松平家)は高遠から直接会津にきたわけではなく、山形を経由しての転封。高遠(3万石)→山形(20万石)→会津(23万石)だったかなぁ?

通常、転封は家臣もつれて移動した。つまり、3万石の保科家の家臣は少なかったはずで、山形に来て20万石になった時点で多くの家臣を雇用?したはず。当時の山形は54万石の最上家が断絶したあとで、浪人は多くいたはずだから、多くは最上家の旧臣を家臣としたのだろう。最上家の旧臣、すなわち山形人でしょうねぇ。

その後、保科家は23万石となって会津に転封したが、家臣の多くを引き連れての移動だったろう。江戸時代、武家と町人の婚姻は一般的でなかったろうから、会津藩士内の婚姻が主で山形人の血統は幕末まで保持されたと推定される。ということは、幕末の会津藩士の行動の根源は山形人のDNAのなせる技なのだろうか?それにしても南雲中将といい、山形人のDNAは滅亡の際に姿を表すんだよなぁ。以上、妄想の世界。

※ 保科家では、武田の遺臣を取り立てたという話もあるから、山形に転封の際に、多くの武田の遺臣を新規採用した可能性もあるか?

参考データ: 江戸時代の始めの富山藩の立藩時に、富山藩士は本藩の金沢から移住して来た人達からなり、その数は700人とも言われる。武士だけで700人。家族や郎党をあわせれば数千人になるのか?

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