吉田松陰
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■ 吉田松陰(よしだ しょういん)

# 「吉田」の名字の由来

# 杉家の生まれで、通称は「寅次郎」といった。叔父の吉田家の養子となった。「松陰」は号で、由来は不明。しかし、江戸時代後期の思想家の高山彦九郎の戒名の「松陰以白居士」からとったとする説や、生地の松本村に因んだという説がある。別号の「二十一回猛士」は、生家の「杉」の字を分解すると「十」「八」「三」で、「二十一」となり、また「吉田」を分解すると「二十一」になる。【出典

# 吉田松陰(よしだしょういん)【出典

・ 1830−1859年。享年30歳(刑死)。

・ 出身地: 長門国(山口県)

・ 肩書き: 長州藩士、思想家、教育者

・ 長州藩士の杉百合之助(すぎゆりのすけ)の次男として萩城下に生まれた。6歳で山鹿流兵学師範である叔父の吉田家の養子になった。8歳で別の叔父の玉木文之進が開いていた松下村塾(しょうかそんじゅく)で学んだ。19歳で長州藩の藩校の明倫館の師範になった。その後、江戸の思想家の佐久間象山に学んだ。しかし、23歳の時に見聞を開くために友人の熊本藩士の宮部鼎蔵(ていぞう)と、東北旅行をしたが、その際に、藩に無断で脱藩したとして士籍と家禄を没収された。その後、密航を企てたとして師の佐久間象山とともに投獄され、その後、松陰は萩の野山獄に幽閉された。1855年に、26歳の時に牢を出され、生家で禁錮の刑になった。そして松下村塾の主宰をつとめた。安政の大獄で斬首となった。
・ 松下村塾の塾生(約80人): 高杉晋作久坂玄瑞、吉田稔麿(としまろ)、伊藤博文、山県有朋

※ 吉田松陰の家紋  

■ 吉田松陰(よしだしょういん)【出典

・ 1830−1859年。享年30歳(刑死)。

・ 出身地: 長門国。

・ 肩書き: 思想家、教育者。

・ 家紋: 五瓜に卍紋。

・ 吉田松陰は、長州藩士の杉百合之助(すぎゆりのすけ)の次男として萩城下で生まれた。六歳で山鹿流兵学師範である叔父の吉田家の養子になって、八歳で叔父の玉木文之進が開いていた松下村塾で学問を学んだ。1853年に、松陰は密航を試んで、師匠の佐久間象山と投獄された。のちに、松下村塾を主宰して、塾生約80人のなかから、高杉晋作久坂玄瑞、伊藤博文、山県有朋などを出した。その後、幕府の老中の暗殺の計画の咎で斬首となった。


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