菅原氏
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■ 菅原氏: 「菅原」の名字の由来

# 菅原(すがわら)氏

・ 天応元年(781年)六月土師氏の改氏姓請願により分立した氏族の一つで、居住地の大和国添下郡菅原郷(奈良県奈良市菅原町)の地名を氏名とした氏族。姓は初めは宿禰、延暦九年(790年)十二月に朝臣を賜った。続日本紀の天応元年六月壬子条によれば、土師宿禰古人・同道長十五人は、祖業を思うに凶儀のみに与るのは意とするところではないので、旧氏姓の土師を改め居住地名より菅原と改氏姓を請願して許され、菅原宿禰を賜った。続日本紀の延暦九年(790年)十二月辛酉条には、菅原宿禰道長らは朝臣の姓を賜ったとある。一族には文人・学者が多く輩出した。古人は続日本紀の延暦四年(785年)十二月甲甲条に、生前の古人は桓武天皇即位以前侍読を務め、その功により四人の子息に衣粮を給せられたとある。四人の息子の内に長男は道長で、万葉集の巻第十七(三九五五)に見える「土師宿禰道良」と同一人物であって、歌人と考えられるが「菅原氏系図」にはその名がみえず、古人の子として清公・清岡・清人の三子名を記す。第四子の清公は、続日本紀承和九年(842年)十月丑条の薨伝によれば、延暦二十一年(802年)遣唐判官となり同二十三年に入唐、一年後帰朝し、弘仁三年(812年)左京亮・大学頭、同十年(819年)文章博士を兼ね天皇の侍読となり、「令義解」「凌雲集」「文華秀麗集」には撰者として名がみえ、文章院を創立し、承和九年に薨じた。清公には四子があったが、第四子の是善は菅原道真の父であり、「三代実録」の元慶四年(880年)八月三十日辛亥条の薨伝にみえるように、父の清公に劣らぬ学業優長の人で大学少允・文章博士など儒門の要職を歴任し、参議に任ぜられ式部大輔を兼ね、元慶四年に薨じた。多くの著書があり、「貞観格式」「文徳実録」の編修にも加わった。なお、旧氏姓が日置臣・日置造・日置首で菅原朝臣に賜姓された氏族があり、「三代実録」の貞観八年(866年)閏三月十七日壬戌条にみえる日置臣岡成、同貞観九年(867年)十一月二十日乙卯条の日置造久米麿、同元慶元年(877年)十二月二十五日辛卯条の日置首永津・今津は菅原朝臣をそれぞれ賜姓された。【出典

姓:真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連。直・臣・使主・君・公などの詳細

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