平群氏
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■ 平群(へぐり)氏: 「平群」の名字の由来

・ 孝元天皇の流れの武内宿禰を祖とする。

・ 大和国平群が本拠地。

・ 姓(かばね)は「臣」、後に「朝臣

# 平群(へぐり)氏

・ 武内宿禰の後裔氏族の一つ。姓は臣、のちに朝臣。平群郡久(つく)宿禰を祖とする。平群の氏名はのちの大和国平群郡平群郷(奈良県生駒郡平群町)の地名による。都久宿禰は木菟(つく)宿禰とも書き、日本書紀の仁徳天皇元年条には、天皇と同じ日の生まれで、その産屋に「さざき」という鳥が飛び込み、天皇の産屋に木菟が飛び込んだので、それぞれの鳥の名とって易名し、木菟宿禰と名づけたとあり、履中紀には、住吉仲皇子乱に際して太子(履中)を助け、蘇我満宿禰らとともに国事を執ったとある。また、日本書紀には、雄略・清寧朝の大臣として平群臣真鳥の名がみえ、武烈天皇即位前紀には、真鳥の子の鮪(しび)と太子(武烈)と物部鹿火の影媛をめぐって争ったという歌垣伝承を載せ、武烈と大伴金村によって鮪は殺され、国政を専らにした父の真鳥も討たれたとある。古事記の清寧天皇段にも鮪に関する歌垣伝承がみえるが、そこでは「平群臣之祖。名志眦臣」とあり、志眦と袁?命(顕宗)とが菟田首らの女の大魚を争った話になっている。その後、用明天皇二年(587年)には物部守屋討伐軍に平群臣神手が加わっており、推古天皇三十一年(623年)には、征新羅副将軍に小徳平群臣宇志が任ぜられた。また、大化の東国国司の一人に平群臣がおり、天武天皇十年(681年)に天皇の命で帝紀および上古諸事が記定されたときには、大山下平群臣子首が中臣連大嶋とともに筆録にあたった。一族は、天武天皇十三年に八色の姓制定に際して朝臣の姓を賜り、持統天皇五年(691年)には祖等の墓記の上進を命じられた。【出典

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