信長の比叡山焼き討ちの背景
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■ 信長の比叡山焼き討ちの背景

 桓武天皇が開いた長岡京の鬼門の逢坂を守るために作ったのが比叡山延暦寺。信長が京に上ったときに、逢坂を通るために比叡山の盾(人質)として利用したのが、室町15代将軍の足利義昭。比叡山焼き討ちののちに、不要となった義昭を追放した。【日本史の謎は「地形」で解ける 竹村公太郎 PHP文庫】

 よく、滋賀県の人が、京都の人に、「文句をいうと、琵琶湖疎水を止めるぞ」というギャグ?があるが、京都の人が、逢坂の関にダムを作ったら、滋賀県は水の底だよなぁ。土地勘はないが、鉄道や道路が束になって逢坂を通っているところをみると、かなりの隘路なんだろう。桶狭間の戦い、三方原の戦い、川中島の戦い。歴史を作ってきた戦いには地形が大きく関与してきた。関ヶ原の戦いは、関ヶ原や伏見城の戦いは有名だが、東北地方でも戦闘があったことを知る人は少ない。それが、慶長出羽合戦で、上杉景勝家老直江兼続の軍と、山形城主の最上義光と義光の甥の伊達政宗の連合軍との戦い。有名に主戦場には、畑谷や長谷堂があるが、政宗は消極的だったので、連合軍はかなり押され気味。関ヶ原の戦いが1日で終わらなかったらどうなっていたことか。  

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