「代官の日常生活 江戸の中間管理職」の読書
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■ 代官の日常生活 江戸の中間管理職 西沢淳男 角川ソフィア文庫 

# 竹垣直温

# 全国に善政をしいた代官の口碑が残り、その一部を記載する。
伊奈忠次 武蔵国小室
辻豊守 出羽国尾花沢
大久保長安 石見国大森
矢嶋藤蔵 大和国五条
竹垣直温 下野国真岡

# 代官の職務マニュアルに「勤方大意(つとめかたたいい)」がある。
・ 代官の職務には、
地方(じかた): 年貢徴収他民生一般事務
公事方(くじかた): 警察および裁判事務
 徴税などにおいては、悪代官のイメージがつきまとうが、規定によるとその裁量範囲は狭く、恣意的な徴税は制度上不可能だった。徴税に対しては、農民をいたわりながら、手抜きなきように税金を取り立てるように。また、代官自身は普段から慎み質素に暮らし、金銭の支払いにも滞りなきように心がけよと規定されていた。なお、四公六民と言われるが、いろいろな免除や控除があったため、実効税率は二割ほどだったという話もある。

# 坂城
・ 信濃国坂木村(長野県坂城町)には、江戸時代中期には坂木藩(板倉家3万石)があったが、元禄15年(1702年)に板倉家が陸奥国福島に転封になったのちは、幕府領となり代官陣屋がおかれた。この地は、北国街道の宿場町で、戦国時代からこの地域の政治的中心だった。

# 江戸時代後期の旗本5100家のうち、御家人から昇格した家が1100家を超えていた。

# 勝惟寅(勝海舟の父)の兄の男谷(おたに)思孝は信濃国中之条の代官だったが、年3両1分の薄給で所帯ももてず、三一(さんぴん)侍と揶揄された年期奉公の侍に、中間であったものを取り立てて、信州での勤務終了後に御家人株を買い与えたという。

# 幕府官僚社会における代官は、旗本としては最下層の地位だった。

# 関東郡代は自称、通称で幕府の役職名は代官だった。郡代として記録に残るのは、江戸時代中後期には、「美濃国笠松」「豊後国日田」「飛騨国高山」だけだった。

# 代官のその後: 在任中の死亡38%、罷免12%、勇退22%、栄転28%。

# 代官の役高は150俵。

# 伊奈忠次の次男の忠治は知行7千石で、武蔵国赤山に陣屋を構え、関東代官の統括を行った。

# 秋鹿(あいか)家: 遠江国中泉の府八幡宮の神官で、幕府の代官を務めた。【静岡県の秋鹿家

# 大岡忠相: 関東地方(じかた)御用掛を兼務。

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