宮崎県内の「伊東」の名字の詳細
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■ 伊東(いとう): 宮崎県の伊東家 

# 宮崎県の伊東家: 飫肥藩主。日向の戦国大名伊東家の子孫。藤原南家伊豆国田方郡伊東(静岡県伊東市)をルーツとする。1190年に日向国地頭となり移り住んだ。

・ 日向国の飫肥藩主。藤原南家の出で、伊豆国伊東(静岡県伊東市)をルーツとする。鎌倉時代の初頭に伊東祐時が日向国に領地を得て転じた。

・ 日向国の戦国大名。伊東祐経が源頼朝の寵臣となって、各地に所領を与えられ、1190年に日向国の地頭になった。伊東氏の家譜である「日向記」によると、跡を継いだ祐時も1198年に頼朝から再び日向国の地頭職を与えられ、一族庶子代官として下向させ、まず自らが土着したという。1335年に祐持は足利尊氏に属して各地を転戦。同年、庶子家の木脇家が日向で南朝方に属して挙兵したこともあり、日向国に下向した。子の祐重は尊氏から都於郡を与えられ、やがて先行土着していた庶子家を被官化すると同時に、古来から日向に勢力を持っていた土持氏をもその支配下においた。1457年に祐堯は財部(たからべ)土持氏を滅ぼして、以後子の祐国のころにかけて全盛期を迎え、日向国の大半を支配した。1523年に尹祐(ただすけ)と弟の祐梁が急死。祐充が若年だったことから外戚の福永氏が台頭して譜代の家臣と対立。1533年に祐充が早世すると、祐武が福永氏を討ったが、今度は祐武と祐清(義祐)が対立し、祐武が切腹した。すると、米良山の一揆衆が祐武の嫡男を擁立して蜂起するなど、しばらく内訌が続いた。この内訌を収めた祐清は義祐と改め、以後戦国大名として発展。1568年には島津忠親から飫肥南郷を奪って日向国をほぼ支配した。以後、日向南部をめぐって島津氏と激しく争い、1577年には野尻城が落城すると、瞬く間に島津義久によって所領全土が落とされ、日向伊東氏はいったん滅亡した。【出典

・ 飫肥藩(宮崎県日南市)藩主。日向国の伊東氏の滅亡の際、伊東義祐の二男の祐兵は豊後の大友氏の下に逃れたが、1578年に耳川の合戦で大友氏が大敗して伊予国に転じた。同年、豊臣秀吉に仕えて河内国丹南郡で500石を与えられた。1587年に豊臣秀吉の九州出兵の際に案内役をつとめ、翌年日向飫肥3万6000石で伊東家を再興した。関ヶ原の合戦では東軍に属したが直後に死去。子孫は江戸時代も日向飫肥藩5万1000石の藩主を務めた。明治時代には子爵。【出典

# 宮崎県の伊東家: 飫肥藩主の一門。伊東左門家。  

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