山口県の戦国史
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■ 山口県の戦国史

# 室町時代、周防国長門国大内氏が代々守護をつとめた。大内氏は平安時代末期に盛房が周防介になって、以後は在庁官人として周防介を世襲した。源平合戦では源氏方に属し、重弘は六波羅評定衆も務めた。【出典

# 義弘のときに筑前国に進出すると、博多を確保して明との貿易で大きな利益をあげた。応仁の乱では政弘が大軍を率いて西軍として参加、国元では周防国守護代の陶弘護が領国を維持した。乱後、政弘は帰国すると少弐氏を降して筑前国・豊前国に進出し、「大内氏掟書」を制定するなど、領国支配を固めた。【出典

# 政弘の子の義興は少弐政資を滅ぼして筑前国を支配、さらに毛利氏を支配下にいれて安芸国に進出して、尼子氏と争った。また、幕府に代わって勘合貿易を独占、多くの文人・禅僧・貴族らが訪れた山口は「西の京」と呼ばれ、貴族趣味に大陸文化を取り入れた大内文化が花開いた。【出典

# その子の義隆は安芸国守護武田氏を滅ぼして安芸国を平定して、周防国長門国・安芸国・石見国備後国豊前国筑前国の七カ国の守護を兼ねた。しかし、天文11年(1542年)に出雲国尼子氏を攻めて敗れ、配送途中で嫡子(養子)の晴持が溺死したことで政治の意欲を失い、天文20年に家老の陶晴賢が叛乱を起こして自害した。【出典

# 晴賢は義隆の姉の子である大友晴英を当主に迎え、大内義長として擁立したものの、弘治元年(1555年)に周防国に侵攻してきた毛利元就厳島の合戦で敗れて自刃した。弘治3年には大内義長も自刃して大内氏は滅亡、以後は毛利元就が防長二カ国を支配した。毛利元就は尼子氏も滅ぼして中国地方の大半を領する戦国大名に成長。天正10年(1582年)には備中高松城で羽柴秀吉と対峙したが、織田信長の急死で講和を結んで、秀吉政権下で五大老の一人になった。【出典】 

戦国時代とは

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