山口県内の「毛利」の名字の詳細
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■ 毛利(もうり): 山口県の毛利家 

# 山口県の毛利家: 長門国萩藩主。【家紋:一文字に三つ星紋明治維新には侯爵

・ 長州藩主源頼朝に仕えた大江広元の子孫で、相模国毛利荘(神奈川県厚木市周辺)をルーツとする。毛利家はのちに安芸国吉田荘(広島県安芸高田市)に下向し発展した。【出典

・ 長州藩主。安芸の戦国大名毛利氏の子孫。輝元は織田信長と対立、1582年には備中高松城で羽柴秀吉と対峙したが、信長の急死で講和を結び、秀吉政権下では五大老の一人となり、安芸広島で120万石の大身となった。しかし、関ヶ原の戦いで西軍の総大将となったため、長門萩36万9000石に減知した。幕末、藩論を倒幕に統一し、薩摩藩と共に戊辰戦争で新政府を樹立した。明治時代には公爵。【出典

# 山口県の毛利家: 徳山藩主。輝元の二男就隆は1617年に3万石を分知され、1631年に周防下松に陣屋を置いたのが祖。1634年に正式に大名となり、下松藩4万5000石を立藩。1650年に藩庁を都濃郡野上村に移して徳山藩とした。1716年に三代元次の時に本藩と対立し除封となったが、1719年に元堯が3万石で再興した。1836年に広鎮のときに4万石に回復。明治時代には子爵。【出典

# 山口県の毛利家: 長府藩(山口県下関市)藩主。毛利(穂井田)元清の四男の秀元が祖。関ヶ原の合戦後、長門国豊東・豊西・豊田の三郡で3万6000石を与えられて長府藩を立藩した。四代元朝は本家を相続、跡を継いだ元矩も1718年に15歳で没していったん断絶した。
同年、清末藩主の元平が匡広と改称して長府藩を継いで再興。1783年に匡芳のときに5万石となった。その子の元義は文人大名として知られた。1869年には豊浦藩と改称明治時代には子爵。【出典

# 山口県の毛利家: 清末藩(山口県下関市)藩主。長府藩主の秀元の三男の元知が、1653年に1万石を分知されて清末藩を立藩。1718年に二代元平が匡広と改名して本家にあたる長府藩を継いだため一時断絶した。1729年に匡広の七男の政苗が1万石を分知されて清末藩を再興。子の匡邦の時には家督相続を巡って清末騒動がおきた。明治時代には子爵。【出典】 

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