長野県の戦国史
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■ 長野県の戦国史

# 室町時代に代々半国守護が続いた信濃国では守護の力が弱く、多くの在地領層が盤踞していた。応仁の乱ののちには、こうした在地領主間の争いが表面化してきた。【出典

# 東信(信濃国東部・上田市周辺)では村上義清海野氏を降し、さらに大井氏を滅ぼして台頭した。中信(信濃国中部・松本市周辺)では小笠原氏深志・伊那鈴岡・松尾の三家に分裂し、明応2年(1493年)に松尾家が鈴岡家を滅ぼして、以後は深志・松尾の二家が並立した。南信(信濃国南部・飯田市周辺)では諏訪一族が惣領家と大祝家に分裂して争っていたが、惣領家の頼満が両家を統一した。さらに、永正15年(1518年)には下社の金刺氏も滅ぼして諏訪地方全域を統一した。北信(信濃国北部・長野市周辺)では高梨氏が勢力を拡大し、永正6年(1509年)には政盛が越後国守護代長尾氏と与し、翌年に上杉顕定を討ち取るなど全盛期を築いた。永正9年には中野氏を滅ぼして、本拠を中野館(長野県中野市)に転じた。【出典

# 天文9年(1540年)に武田信虎が佐久郡に侵攻、村上義清と与して海野氏を追放した。この年、信虎は嫡男の晴信(武田信玄)に追放されて、以後は晴信が信濃国に侵入した。【出典

# 諏訪頼満の孫の頼重は武田信虎の娘を娶って武田氏と与したが、分家の高遠諏訪家の頼継と与した武田信玄に攻められ、天文11年(1542年)に頼重が自刃して滅亡し、諏訪は武田氏の領国に併合された。信玄は頼継も追放して、天文22年には村上氏を、翌弘治元年(1555年)に木曽氏も降して信濃国を手中にした。【出典

# 武田信玄元亀3年(1572年)に上洛を試みたが、翌年信濃国伊那郡駒場で客死、跡を継いだ勝頼は天正3年(1575年)の長篠合戦で徳川・織田の連合軍に大破して勢力が衰えた。天正10年には木曽氏織田信長に通じて、武田氏が滅亡した。【出典

# 本能寺の変の後には、北から上杉景勝が、東から北条氏政が、南からは徳川家康が侵攻して激突した。結局、北条氏信濃国から撤退して、川中島四郡と安曇郡を上杉景勝が、残りを徳川家康が領するようになった。【出典

戦国時代とは

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