「小笠原」の名字の由来
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■ 小笠原(おがさわら、おかさわら)

【2023/05/22:改編】

# 232位

# 224位: 「丸に三階菱紋」「丸に松皮菱紋」「丸に五七桐紋」「丸に三つ扇紋」【知っておきたい家紋と名字 別冊宝島】

# 漢字三文字苗字ランキング: 7位

# 甲斐源氏加賀美流などにみられる。

# 代表家紋

# 東北地方より北、東海地方四国地方に多く見られる。

# 青森県:13位、岩手県:27位、高知県:50位、秋田県:54位、北海道:88位、山形県:107位など。

# 甲斐国巨摩郡小笠原村(山梨県南アルプス市)を発祥の地とする。

# 小笠原から派生した名字には「三村」「浅原」「跡部」「打越(うちこし)」「大井」「大倉」「下条」「二木」「」「船越」「三好」などがある。

# 甲斐国巨摩郡小笠原村(山梨県南アルプス市)を発祥の地とする。12世紀の初めに弓矢の名主として高倉天皇に仕え、甲斐国武田氏武田信義の弟であり、加賀美氏の祖である加賀美遠光(とうみつ)の次男の長清(ながきよ)がこの地に土着し小笠原を名乗った。

# 清和源氏の加賀美遠光の二男の長清が小笠原に住んで小笠原氏を称した。長清は源頼朝に従って功を成し、信濃国伴野荘(長野県佐久市)の地頭となり、後に阿波国(徳島県)の守護をつとめた。建武の新政後、小笠原貞宗が信濃国筑摩郡井川(長野県松本市)を本拠とした。【出典

# 小笠原氏は鎌倉時代に本拠地を信濃国に転じ、室町時代には守護を務めた。

# 小笠原氏には松尾家と深志家という二つの流れがあり、播磨安志藩主小笠原家は深志家の小倉藩主の分家にあたる。播磨明石藩時代の忠真の甥の長次が、1626年に播磨竜野6万石を賜って分家したのが祖。その後、豊前中津8万石に加増されて転封。しかし、その後一旦領地を没収され、1717年に播磨国宍粟・佐用・赤穂三郡で1万石で再興、宍粟郡安志谷に陣屋をおいて安志藩1万石をたてた。明治時代には子爵。【出典

# 小笠原家嫡流信濃国を領地としたが、他に庶流は「山城国(京都)」「阿波国」「備前国」「備中国」「石見国」「三河国」「遠江国」「陸奥国」に拡がった。

# 戦国時代には、その領地を武田家に奪われるが、江戸時代には譜代大名として信濃国飯田5万石(後に信州松本8万石)を拝領する。

# 小笠原家甲斐国の小笠原にあったが、鎌倉幕府や室町幕府で礼法の伝承を家業とした。小笠原貞宗が足利尊氏から信濃の守護に任命され、信濃国に移り住んだ。南北朝の頃、お家騒動で深志(松本)系と松尾(飯田)系に分かれた。江戸時代は北九州小倉を領地とし、小倉城の庭園内に小笠原礼法の博物館がある。

# 旗本小笠原家藤原南家

# 石見国邑智郡の国衆。鎌倉時代から邑智郡での活動がみられ、温湯城(島根県邑智郡川本町)に拠った。永禄2年(1559年)に、石見国に侵攻してきた毛利氏に抗して温湯城に籠城したが、尼子氏の支援が得られず落城し、以後は毛利氏に従って、江戸時代には長州藩士。【出典

# なお、室町時代以降、武家社会の有職故実(ゆうそくこじつ)を伝える役割を担い、武家の作法の小笠原流の流れとなる。

※ 有職故実とは古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事や法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束などのこと。

# 福井県の小笠原家

# 長野県の小笠原家

# 静岡県の小笠原家

# 愛知県の小笠原家 

# 兵庫県の小笠原家

# 島根県の小笠原家 

# 高知県の小笠原家 

# 福岡県の小笠原家

# 佐賀県の小笠原家

# 熊本県の小笠原家

# プロ野球の小笠原道大は千葉県千葉市の出身。

# 小笠原氏は後に小笠原諸島を発見

# 徳島県の小笠原氏: 阿波国戦国大名で、阿波の守護を務めた小笠原長房の四男の長宗を祖とする。長宗我部氏に敗れる。【出典】 

# 「小笠原」の地名

# 小笠原家

# 安志藩 ・ 勝山藩 ・ 唐津藩 ・ 小倉藩 ・ 小倉新田藩

# 国衆(国人)

# 「小」のつく名字

# 「原」のつく名字

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