「長尾」の名字の由来 | |
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■ 長尾(ながお)
【2023/05/29:改編】
# 291位
# 287位【知っておきたい家紋と名字 別冊宝島】
# 代表家紋
# 上杉氏の家宰。名字の由来の地は相模国鎌倉郡長尾郷(神奈川県横浜市栄区)。桓武平氏の出で、鎌倉権五郎景正の子の景村が長尾氏を称したのが祖というが、鎌倉時代には幕府の御家人として活躍した長尾氏は鎌倉景政の孫の景行の子孫である。宝治合戦の際に景茂・景氏父子は三浦氏に属し、嫡流は断絶した。景茂の遺児の景忠は、京にいてこの乱に与しなかった景煕の養嗣子になった。景忠はのちに上杉氏の被官になって上野国・越後国の守護代をつとめ、子孫は、鎌倉・足利・白井・総社の4家に分かれた。白井長尾氏は景行の子の清景が祖で、上野国白井城(群馬県渋川市)に拠った。その子の景守は上野国の守護代をつとめたが、景仲・景信父子は上杉氏の家宰として上野国・武蔵国の守護代をつとめたが、景春は家宰になれなかったことから上杉氏に叛いて長尾景春の乱を起こした。享禄元年(1528年)に景誠が家臣によって殺されたため、総社家の憲景が跡を継ぎ、永禄3年(1560年)に上杉謙信に従ったが、その死後は北条氏に仕え、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏とともに滅亡した。江戸時代、末裔は米沢藩の重臣をつとめた。総社長尾氏は白井長尾氏の清景の弟の忠房が祖。上野国総社(前橋市)を本拠とし、蒼海城に拠った。忠政は上杉憲基・憲実などの家宰をつとめた。大永年間、顕方・顕景父子は北条氏綱・長尾為景と結んで主君の上杉憲寛に叛いたが失敗して失脚した。永禄9年(1566年)に武田氏の侵攻によって越後国逃れて上杉氏の家臣になった。【出典】
# 長尾氏は、相模国長尾郷の在地領主という。上杉氏が関東地方に勢力を伸ばして、鎌倉周辺の在地領主を被官としていった。長尾氏は、相模国長尾郷の在地領主という。上杉氏が関東で勢力を拡大していき、鎌倉周辺の在地領主を被官としていった。「家宰」は「家務職」や「執事」ともいい、重臣の代表として家政機関を統括する立場をいう。山内上杉氏が上野国の守護になったことから、長尾氏も上野国に勢力を持ち、総社長尾家・白井長尾家や越後長尾家などに分かれた。【出典】
# 愛知県から岐阜県にかけてと瀬戸内海沿岸と青森県に多くみられる。
# 相模の長尾氏は相模国鎌倉郡長尾郷(神奈川県横浜市戸塚区?)をルーツとし桓武平氏。大庭氏の一族で、前九年・後三年の役で活躍した鎌倉権五郎景政の孫景忠の次子景弘が当地に住し長尾次郎と称したことから始まる。
# 森岡浩さんの「全国名字大辞典」では、長尾は相模国鎌倉郡長尾郷(神奈川県横浜市栄区)となっていますが、一方同じ著者の「名字で読む歴史・時代小説」では相模国高座郡長尾荘(神奈川県横浜市栄区)となっていますが、どちらなんだろう?まぁ、とにかく相模国には間違い無しだが。
# 上杉家が越後の守護になったときに、長尾家は守護代として越後国に土着した。
# 讃岐の長尾氏は讃岐国仲多度郡長尾(香川県仲多度郡まんのう町)をルーツとする。
# 讃岐国鵜足郡の国衆。初代の元高は三野郡詫間郷を領していたが、応安元年(1368年)に、西長尾城(香川県仲多度郡まんのう町長尾)に転じ、長尾大隅守を称した。以後は、代々西長尾城に拠った。天正7年(1579年)に、長宗我部元親に従ったが、天正13年に豊臣秀吉の四国攻めで落城した。【出典】
# 古代豪族の長尾氏は大和国葛下郡長尾(奈良県葛城市長尾)をルーツとする。
# 駿河国庵原郡長尾村(静岡県静岡市)をルーツとする長尾氏は相模国の長尾氏の一族。
・ 桓武平氏の良文流の長尾氏の庶流。相模国鎌倉郡長尾をルーツとする。足利尊氏に従う上杉憲顕が越後国の守護となり、その被官の長尾景忠が守護代となった。【戦国大名「御家」系譜事典 宝島社 監修:森岡浩】
# 神奈川県の長尾家
# 新潟県の長尾家
# 「長尾」の地名
# 古代豪族の長尾氏
# 「尾」のつく名字。
# 「長」のつく名字。
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