千葉県内の「里見」の名字の詳細
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■ 里見(さとみ): 千葉県の里見家 

# 千葉県の里見家: 上野国碓井郡里見郷(群馬県高崎市)をルーツとし、清和源氏新田氏の一族。嘉吉元年(1441年)、里見家基が結城合戦上杉氏に敗れ、子の義実が相模国安房国?)に逃れて安房の里見氏になった。

・ 千葉県の里見家: 清和源氏の出で新田氏の一族。上野国里見郷(群馬県高崎市)をルーツとし、室町時代に上杉憲実に本拠地を奪われ、相模国を経て安房国に移り住んだ。室町時代後半から江戸時代初期まで安房一国を領したが、17世紀はじめに跡継ぎがおらず、断絶した。【出典

# 千葉県の里見氏: 安房国の戦国大名。上野国の里見氏の義秀は竹林(群馬県太田市高林)に住み、その子孫の家基は関東公方足利義持に仕え、1441年の結城合戦上杉憲実に敗れて戦死。子の義実は相模国に落ちて、三浦氏の援助を得て安房国平群郡白浜(千葉県南房総市白浜町)に入ると、以後白浜城に拠って安房里見氏になったという。さらに、東条氏、丸氏、神余氏、安西氏を降して、1445年には安房国一国を平定したというが、おそらく源頼朝の安房上陸になぞらえた後世の附会とみられ、実在は確認されていない。
史料上確認できるのは戦国時代の義通以降で、義通の没後、弟の実堯が跡を継いで稲村城(館山市)に拠って、幼少の嫡男の義豊は宮本城(南房総市富浦町)に入ったが、1526年に義豊が叔父の実堯と重臣の正木大膳太夫を暗殺。実堯の子の義堯は上総国に逃れて百首城に拠って北条氏と結ぶと、義豊は上総真理谷城の結んで内訌(ないこう)となった。
1534年に北条氏の支援を受けた義堯は犬掛合戦で義豊を降して里見氏を統一、館山城(館山市)を築いた。これを境に、義豊以前の嫡流を前期里見氏、傍流が当主となった義堯以降を後期里見氏と呼ぶ。1538年の第一次国府台合戦後、義堯は久留里城を築いて本拠とし、子の義弘は佐貫城に拠って上総・下総にも進出した。しかし、1564年の第二次国府台合戦で北条氏康に敗れて衰退した。さらに、1590年の秀吉の小田原攻めでは義康の参陣が遅れたため、安房一国に領地を減らされた。関ヶ原の合戦では義康が東軍に属して、1601年に11万2000石に加増されたが、1614年に忠義は岳父の大久保忠隣連座して伯耆国倉吉2万石へ転封。1622年に無嗣断絶した。【出典

# 安房国の里見氏は内訌があって途中で嫡流に変更があり、前期・後期の二つに分かれるという。【出典】 

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