秋田県内の「佐竹」の名字の詳細
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■ 佐竹(さたけ): 秋田県の佐竹家 

# 秋田県の佐竹家: 秋田(久保田)藩主常陸国久慈郡佐竹郷(茨城県常陸太田市)をルーツとし清和源氏の出。源義光が常陸介となって佐竹郷を領し、その子の義業が下向して佐竹氏を称した。関ヶ原の戦いで中立を保ったため、秋田(久保田)に転封となった。

・ 秋田藩主。関ヶ原の合戦の際、義宣は石田三成と親交があったため西軍に与し、徳川家康の会津攻めを背後から討とうとしたが果たせず、戦後出羽久保田(秋田市)20万5000石に減転となった。義宣には世子がなかったことから、義宣の弟で磐城家を継いでいた貞隆の長男の義隆が継ぎ、秋田藩の藩政の基礎を固めた。八代の義敦は曙山と号した画家としても有名で、その子の九代目義和は江戸時代中期に藩政改革を行った名君として有名。戊辰戦争では奥羽列藩同盟には加わらず官軍に属し、明治時代には侯爵。一族に秋田新田藩を立藩した壱岐守家のほか、湯沢佐竹(南家)、角館佐竹家(北家)、大館佐竹家(西家)、東家があり、壱岐守家は子爵、他の四家は男爵となった。【出典

・ 源義光の孫の昌義が1133年に常陸国久慈郡佐竹郷(茨城県常陸太田市)に住んだのに始まる。昌義は奥州平泉藤原清衡の娘と結婚。室町時代には足利尊氏に従って常陸国の守護になった。豊臣秀吉小田原攻めに参加して54万石を得たが、関ヶ原の多々マイでは西軍よりで、江戸時代には出羽国久保田(秋田)20万石へ。

# 秋田県の佐竹家: 秋田新田藩。佐竹壱岐守家。秋田藩の二代藩主の義隆の四男の義長を祖とする。

・ 佐竹壱岐守家。秋田藩の二代藩主の佐竹義隆の四男の義長が祖。代々壱岐守となったため、壱岐守家と言われた。義長は1701年に2万石を分知され、秋田新田藩を立藩した。1870年に岩崎藩と改称し、その後子爵へ。【出典

# 秋田県の佐竹家: 佐竹北家。天文年間に佐竹義信が常陸太田城の北に住んで北家と呼ばれた。江戸時代には角館に住み、角館家とも呼ばれた。

# 秋田県の佐竹家: 秋田藩家老。佐竹東家。佐竹義治の四男の政義を祖とする。常陸太田城の東に住んで東家と呼ばれた。

# 秋田県の佐竹家: 佐竹南家。佐竹義里が常陸太田城の南に住んで南家と呼ばれた。江戸時代には羽後国湯沢(秋田県湯沢市)を領した。

# 秋田県の佐竹家: 秋田藩家老。佐竹西家。大館領主。 

・ 秋田藩家老。大館領主。室町時代に佐竹義篤の子の義躬が常陸国那珂郡小場(おば・茨城県常陸大宮市小場)を領して小場城を築城し、小場氏を称したのが祖。その後、佐竹氏と共に出羽国に転じて大館城代となり、江戸時代には佐竹西家を称して秋田藩の家老を務めた。幕末に、藩主の代理で戊辰戦争に出兵し、明治時代には男爵出典】 

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