山内一豊
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■ 山内一豊(やまうち かつとよ): 「山内」の名字の由来

# 山内一豊の家紋

# 土佐藩の初代藩主

# 「山内一豊」は一般には「やまのうち かずとよ」と呼ばれますが、正式には「やまうち かつとよ」のようです。 

# 尾張国の上四郡の守護代家老の家に生まれた。守護代が信長に滅ぼされた後は浪人をしていたが、後に信長に仕えるようになった。その後秀吉に仕え、近江国の長浜400石から、播磨国2000石、若狭国の高浜1万9800石、遠江国の掛川5万石となった。関ヶ原の戦いにおいては東軍に属し、率先して掛川城と兵糧を徳川軍に献上したため、江戸時代には土佐国20万石を領した。

# 山内一豊(やまうちかずとよ)【出典

・ 1546?ー1605年。病死。

・ 出身地: 尾張国

・ 肩書き: 武将。

・ 家族: 父:山内盛豊。

・ 家紋: 丸に土佐柏紋

・ 岩倉織田家の重臣の山内家の出である。織田家のお家騒動で山内家は離散、一豊は1568年頃から織田信長に仕え、羽柴秀吉に属した。関ヶ原の合戦の直前に、徳川家康について上杉氏の征討のために行軍中に、一豊は妻からの密書で石田三成の挙兵を知った。下野国での軍議の途中に、いちはやく東軍につくことを明言して、自分の居城の掛川城を家康に提供することを告げたため、東軍の結束を強めたという。戦後は土佐国一国を賜ったが、領主の長宗我部氏の兵は「一領具足」という、武装した農民で、一豊は彼らの反発を受けたが、平定した。


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