北海道の戦国史
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■ 北海道の戦国史

# 延文元年(1356年)に成立した「諏方大明神絵詞」によると、当時蝦夷地には渡島半島東部の「日ノ本」、南西部の「渡党」、北西部の「唐子」の三類があったという。そして、「日ノ本」が千島列島、「唐子」が樺太と通じて外国とつながる一方、「渡党」は陸奥外ヶ浜(青森県)にも拠点を持って交易しただけではなく、陸奥国安東氏のもとで合戦に加わることもあったという。【出典

# 陸奥国津軽郡十三湊(青森県五所川原市)の福島城に拠った下国家の安東盛季は嘉吉3年(1443年)に南部義政によって蝦夷地の松前に追われた。その後、安東氏陸奥国に戻ったのち、政季は享徳3年(1454年)に武田信玄、相原政胤、河野政通を伴って蝦夷地に渡った。【出典

# 安東政季は在島した2年間に渡島半島先端部を「下之国」「松前」「上之国」の三つに分割、「下之国」に下国家政、「松前」に下国定季、「上之国」に武田信玄の3人の守護を置いた。【出典

# 安東政季は康正2年(1456年)に、湊安東氏の堯季(たかすえ)の手引きで出羽国に転じると、翌長禄2年(1457年)にアイヌのコシャマインが蜂起、道南十二館のうち、下之国の茂別館(下国家政)と上之国の花沢館(蠣崎季繁)を除く十館を落とした。このときに蠣崎季繁のもとにいた武田信広がコシャマインを討ち、やがて季繁の養女を妻に迎えて蠣崎氏を継ぐと、館主層を次々に被官化し、永正11年(1514年)には大館(松前町)に転じて、以後は事実上松前を支配した。【出典】  

戦国時代とは

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