最上義俊
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■ 最上義俊(もがみよしとし): 「最上」の名字の由来

・ 最上家

・ 出羽国山形藩の三代藩主。二代藩主で最上義光の次男の家親は36歳で死亡。毒殺とも暗殺とも言われる。しかし、義俊が藩主となった際に老臣たちが分裂して、その後改易となった。義俊は近江国1万石。義俊の子の義智は5千石で旗本

# 最上義俊(よしとし)【出典:大名の『お引っ越し』は一大事!? 江戸300藩「改易・転封」の不思議と謎 山本博文 (じっぴコンパクト新書)】

・ 最上義俊は元和3年(1617年)に、山形藩の二代藩主である、父・家親の変死にともない、13歳で山形藩(57万石)の三代藩主となった。若い義俊は藩政を担うことができず、家臣の統制もかなわず、やがて酒食にふけっていった。反対派の家臣は、義俊を藩主の器ではないとして、義俊の叔父の山野辺義忠を藩主に推した。こうして、藩内は二分され、抗争に発展した。幕府は騒動を鎮めるために、最上家の領地を一旦没収して、義俊が成長したときに新たに6万石を与えるという決定を下した。さらに、「家臣たちが私欲をすてて、義俊をよく補佐すれば、将来領地を返す」とした。しかし、家臣団は折り合いがつかず、和解を拒否したため、1622年に改易となった。義俊はその後、近江国と三河国のそれぞれ5000石で最上家は存続した。

# 最上義俊は、元和3年(1617年)に、13歳で出羽国山形藩57万石を継いだが、あまりにも若いので、しだいに自分の無能ぶりに苦しんで、酒色におぼれた。そのためか、人望もなく、放埒な生活をして藩政をかえりみなかった。「義俊、年若く、酒色にふけり、家政整わず。家臣こぞって騒動におよぶありさまでは、東国第一の要地である山形国を預けておくことはできない」として、幕府は改易を決定した。寛永8年(1631年)に義俊は26歳で死去した。残された2歳で長男の義智は近江国の大森陣屋5000石を継いだ。【出典


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