長谷川平蔵
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■ 長谷川平蔵(通称): 「長谷川」の名字の由来

・ 1745年〜1795年
・ 諱: 宣以(のぶため)
・ 幼名: 銕三郎(てつさぶろう)・ 銕次郎(てつじろう)
・ 渾名(あだな): 鬼平

・ 父親の宣雄は火附盗賊改方から京都西町奉行に抜擢。平蔵も京に同道したが、宣雄が死亡したため江戸に戻り、家督を継いだ。その後、1774年に江戸城西の丸御殿の書院番士(警備)に就任した。1788年に先手組弓頭のときに火附盗賊改方に任ぜられた。平蔵の業績としては、「人足寄場」の設置。

※ よく、BSフジで「鬼平犯科帳」をやってますねぇ。しかし、上記によると火附盗賊改方になって7年後には亡くなっているんですね。

# 長谷川平蔵の家禄は400石。天明7年に火付盗賊改(先手組頭)の役高は1500石。35%の年貢で525石で年収は1億230万3000円(60人扶持を含む)。【江戸の長者番付 菅野俊輔 青春出版社 ・ 1両:約16万2000円で計算 】

# 長谷川平蔵: 1746年に、旗本の長谷川宣雄(400石)の嫡男として生まれた。長谷川家の先祖は、駿河国の今川義元に仕えたが、桶狭間の合戦後には徳川家康に仕えた。平蔵は1773年に28歳で家督を継いだ。1774年に西丸御書院番士に召し出され、西丸御進物番士、西丸御徒頭を歴任し、1786年に先手弓頭に進んだ。その後松平定信の時勢で火付盗賊改となった。【出典

# 人足寄場: 寛政の改革において、長谷川平蔵の提案で、松平定信は1790年2月に隅田川河口の石川島に開かれ、長谷川平蔵が運営にあたった。これはいわば、江戸の無宿人の更生施設とも言える。収容者数は当初は140〜150人程度だったが、天保時代には400〜600人ほどにふくれあがった。幕府からは初年度に500両、それ以後も毎年300両が支出された。【出典


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