長瀞藩
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■ 長瀞藩(山形県東根市長瀞)

・ 「長瀞」の地名

・ 米津(よねきづ)家」1万1千石・陣屋。

・ 1798年に入封。

・ 弓渡村: 房総半島の東部にあり、幕末時点での石高は133石。領主は貞享元年(1684年)以降、譜代大名米津氏出羽国長瀞藩)だった。【百姓の力 江戸時代から見える日本 渡辺尚志 角川ソフィア文庫】

・ 東根にあった長瀞藩は版籍奉還の直後に上総国に移転し大網藩になった。【消えた都道府県名の謎 意外と知らない「ふるさとの成り立ち」47の物語 八幡和郎 イースト新書Q】 

# 長瀞藩(ながとろはん)
・ 藩主の米津氏は関東の上総・下総(現千葉県)に5,000石を領していたが、寛文6年米津田盛が大坂城番となり、摂津・河内(現大阪府)に1万石を加増されて、1万5000石の譜代藩としてとりたてられた。その後弟たちに4,000石を分与し、武蔵久喜(現埼玉県久喜市)に居処を営み、1万1,000石を領有していた。寛政10年通政(伊勢守)のとき武蔵国の藩領6,425石余を村山郡に替え地となり、居処を長瀞に移した。明治2年6月藩主政敏は版籍を奉還し、同年11月上総国山辺郡大網(現千葉県大網白里町)に移り大網藩と称したが、同4年2月さらに常陸国河内郡竜崎(現茨城県竜ケ崎市)に移り竜崎藩と称した。【出典

# 山形県東根市長瀞の禅会(ぜんえ)寺は、山形城の四代城主の最上満家の菩提寺だが、その山門の成立については謎とされてきた。2021年に、山形大学の永井教授らの調査で、その山門は江戸時代に長瀞藩の陣屋の正門が移築された可能性が高いことが分かった。

# 長瀞藩士:

# 長瀞藩(ながとろはん): 出羽国。長瀞陣屋。米津家。譜代大名。1万1000石。寛政10年(1798年)に立藩。武蔵国久喜藩主の米津通政が長瀞に替え地6400石を与えられ、藩庁を移した。【出典


【注意】転封などがあるため、藩主や石高には変化があります。ここでは一例を掲載しています。

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