令和
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■ 令和(れいわ)

・ 令和時代。2019年5月1日〜。今上天皇。出典は万葉集。

・ 平成31年4月1日発表。

・ 改元理由: 今上天皇の即位による。

・ 万葉集: 万葉集の巻五、梅花(うめのはな)の歌三十二首并せて序に含まれる以下の和歌による。

 初春月、気淑風、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香【初春の令月にして、気淑(きよ)く風和ぎ、梅は鏡前の粉を披き、蘭は珮後(はいご)の香を薫す】

・ 政府案は「令和」を含めて5つ。

・ 安倍総理の談話によると、「厳しい寒さの後に春の訪れを告げ、1人1人の日本人が明日への希望を持ち、自然の美しさを愛でることができるように、新しい時代を国民と切り開いていく、決意を新たにしている」。「我が国は歴史の転換点を迎えている。万葉集は幅広い人々の暮らしや息づかいを書いている。悠久の歴史、四季折々の美しい自然を引き継いでいくべき。世界がものすごいスピードで変化している。変わるべきは変わる。若者たちが夢を持って頑張っていける社会、それぞれの花を大きく咲かさせることができる社会を築いていきたい」とした。

・ BBCの英訳では「Order and Harmony」

新元号の「令和」だが、地名にないか角川日本地名大辞典で調べてみたらヒットしない。ただ以下のような「令和」の記述を見つけたが、何のことやら?「令」は施行令などの「令」で、「令和」とはつながらないか?

# 薩摩国頴娃郡(鹿児島県)
 建久8年の薩摩国図田帳によれば、頴娃郡57町、そのうち府領社23町(開聞宮領)下司頴娃次郎忠康、公領34町(島津庄寄郡)本郡司在庁種明、地頭右衛門兵衛尉(島津忠久)とある。忠康以後頴娃氏は開聞宮(枚聞神社)下司職に郡司職をも合わせ伝領し鎌倉末期に至った。正慶元年12月25日鎮西探題裁許状によれば頴娃三郎貞澄の名が知られている(禰寝文書)。一方、地頭職は忠久から2代忠時、長久(忠時三男)、忠宗(4代)、実忠(忠宗二男)に相伝され鎌倉末期に至った。正慶元年12月5日鎮西下知状の一節に「於当国頴娃郡地頭所者、大炊助入道教仏(長久)知行之時、止代官入部、令和与所務」とあり、郡司・地頭間で相論のあったことが知られる(山田忠経譜/旧記雑録)。南北朝初期、延元2年3月征西将軍懐良親王の前駆として三条泰季が揖宿郡に下向してくると、頴娃三郎(貞澄)は島津氏とともにこれを攻めたが、興国3年5月懐良親王が谷山御所に入ると、「今月(6月)十四日頴娃左近大夫定澄一族以下百余騎令参候」とある(阿蘇文書興国3年7月22日某書状)。貞澄・定澄は同一人であろう。以後南北朝期を通じて頴娃氏は宮方にあって島津氏と戦った。応永初年守護島津元久は頴娃氏を滅ぼし、頴娃郡を弟久豊に与えた。応永10年久豊が日向国内に封ぜられると、頴娃氏の支族小牧氏が当郡を領した。同27年小牧氏が反したので、守護久豊はこれを討って、頴娃・揖宿2郡を肝付兼政に与えた。兼政は頴娃氏を称し、以後その子孫が当郡を領したが、天正16年頴娃久音が谷山郡山田村に移封され、当郡は島津氏直轄領となった。

■ 百二十六代: 今上天皇(徳仁・なるひと)

・ 昭和35年(1960年2月23日)生。平成天皇の子。令和元年(2019年5月1日)に59歳で即位。


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