島根県の戦国史
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■ 島根県の戦国史

# 島根県は、出雲国石見国隠岐国の三カ国から成り、室町時代から戦国時代の初期にかけては、出雲国・隠岐国の守護は、京極氏が務めていた。しかし、京極氏は幕府の要職について、近江国の守護も務めていたことから、実際には守護代が治めていた。【出典

# 出雲国には京極氏と同族の尼子氏守護代として入部し、応仁の乱では京極氏の支配が弱まると次第にその勢力を強め、16世紀初頭に経久の頃には戦国大名に成長した。そして、宍道湖や中海の制海権を握り、さらに出雲鉄を掌握して強力な基盤を築いて、大内氏の滅亡後に晴久は山陰・山陽を合わせて八ヶ国の守護を兼ねる山陰屈指の大大名に成長した。その後は、毛利氏と争って、一族の新宮党との内訌もあって衰退し、永禄9年(1566年)に義久のときに毛利氏に敗れて落城して、本家は滅亡した。【出典

# 隠岐国も、同族の隠岐氏守護代として入部して支配した。出雲国から隠岐国にも勢力を広げてきた尼子氏は、離島という特殊性もあって、隠岐氏を討たず、小守護代として家臣団とした。【出典

# 石見国は、山名氏守護をつとめていたが、実質的には大内氏の支配下にあって、そのもとで国衆層の盟主である益田氏が統治していた。しかし、16世紀に入って、石見銀山が開発されると、石見国東部に尼子氏が進出、大内氏との間で一進一退を繰り返した。そして、天文20年(1551年)に大内氏が滅ぶと、尼子氏の勢いがまさり、結局石見国の東部は尼子氏の支配下となり、西部には毛利氏の傘下に降った益田氏が支配した。そして、永禄5年(1562年)には毛利元就が出雲国に侵攻し、国衆層が次々と毛利方に転じたため、永禄9年に冨田城が落城、尼子氏は一旦滅亡した。その後、永禄12年に山中幸盛らによって尼子氏が再興されたが、元亀2年(1571年)には討たれ、出雲国・石見国は毛利氏のもとで吉川元春が支配した。【出典

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