茨城県内の「結城」の名字の詳細
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■ 結城(ゆうき): 茨城県の結城家 

# 茨城県の結城家: 下総国結城郡(茨城県結城市)をルーツとし、藤原北家秀郷流小山政光の三男の朝光が結城を領し結城氏を称した。 

・ 藤原北家秀郷流小山政光の子で頼朝の乳母を母とする朝光が、頼朝から下総国結城を与えられたのに始まる。後に家康の子の秀康が養子となり跡をつぐ。 

# 下総国戦国大名藤原北家秀郷流。小山政光の三男の朝光は実母の寒河尼(さむかわのあま)が源頼朝の乳母であったことから頼朝方に参加、志田義広を討って結城郡を与えられ、結城氏を称した。さらに奥州攻めでも活躍して、武蔵国白河荘(福島県白河市)も賜った。室町時代、基光は小山氏に代わって下野国守護となり、結城氏は全盛期を迎えた。永享10年(1438年)の永享の乱では結城氏朝足利持氏に属して敗れ、永享12年に持氏の遺児を擁して結城合戦を起こしたが再び敗北した。嘉吉元年(1441年)に氏朝が自刃したのち、氏朝の子の成朝は古河公方の足利成氏に従って結城氏を再興した。政朝は戦国大名となり結城氏の中興の祖といわれ、その子の政勝のころには北関東の有力大名になった。政勝の跡を継いだ晴朝は北条氏上杉氏の二大勢力の間で衰退した。しかし、いちはやく豊臣秀吉に通じて、天正18年(1590年)の小田原攻めでは北条氏を攻撃し、豊臣政権下でも北関東の有力大名として存続した。このときに、豊臣秀吉の養子になっていた徳川家康の二男の秀康を養子に迎え、関ヶ原の合戦後には秀康は越前国北ノ庄に転じて松平氏を称した。【出典

# 茨城県の結城家: 下総の戦国大名藤原北家秀郷流小山政光の三男の朝光が源頼朝の挙兵に呼応し、その功により結城郡を与えられ結城氏を称した。鎌倉時代には有力御家人、南北朝時代には北朝に属した。後に下野国守護となり、秀吉の小田原攻めでは北条氏を攻めた。徳川家康の二男の秀康を養子に迎え10万1千石。関ヶ原の戦いでは東軍に属し越前国北ノ庄で67万石を領した。後に松平氏改姓。【出典

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