山形県の戦国史
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■ 山形県の戦国史

# 戦国時代に出羽国米沢(山形県米沢市)を本拠とした伊達氏は、本来は陸奥国伊達郡(福島県伊達市)の武士だったが、鎌倉時代にはすでに出羽国の置賜地方(山形県の米沢市周辺)に勢力を拡大し、九代の政宗(独眼竜政宗とは違う)の墓所は高畠町の竹ノ森にある。大永2年(1522年)に伊達稙宗陸奥国守護になり、大崎氏による陸奥国の支配体制を覆した。その後、稙宗・晴宗父子が対立、この内訌を制した晴宗は天文17年(1548年)に米沢城を本拠地として転じ、弘治元年(1555年)には奥州探題になった。また、次第に伊達・信夫出身の宿老が減少し、子の輝宗以降は置賜出身者が伊達家の家臣の中でも重要な地位をしめるようになった。【出典

# 一方、羽州管領をつとめた斯波氏は次々と庶子家を出して山形県内各地に根を張り、嫡流最上氏を称した。天正2年(1574年)に当主の最上義光に対して、父の義守が女婿の伊達輝宗庶流天童氏らと結んで挙兵した天正最上の乱を機に、義光は伊達氏の影響下から脱して戦国大名になった。義光は白鳥氏寒河江氏天童氏などを次々と滅ぼして庄内地方を統一、さらに新庄まで支配した。【出典

# 鎌倉時代初期に出羽国田川郡大泉荘(山形県鶴岡市付近)の地頭になった武藤頼平の子孫は大宝寺城に拠って大宝寺氏を称し、寛正3年(1462年)には淳氏が出羽守に任ぜられている。天正11年(1583年)に最上義光に従う国衆に攻められて義氏が自刃。跡を継いだ弟の義興は上杉氏の家臣の本庄繁長の二男の義勝を養子に迎えて対抗したが最上義光に敗れて一旦は滅亡した。その後、養子の義勝が大宝寺氏を継いで、実父の本庄繁長とともに庄内地方を取り戻した。【出典

# 天正18年(1590年)に豊臣秀吉小田原攻めには伊達政宗最上義光ともに遅参したが許され、政宗は陸奥国玉造郡(宮城県)に転封、代わりに米沢には蒲生氏郷が入った。前年に上洛していた大宝寺氏は存続したものの、文禄元年(1592年)に庄内一揆の鎮圧に失敗して所領を没収された。【出典

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