尾呂志」の地名の由来
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■ 尾呂志(おろし): 三重県牟婁郡御浜町(旧尾呂志村)

# 尾呂志(おろし): 尾呂志川流域に位置する。地名の由来は颪(おろし)の意で、夏期に風伝(ふうでん)峠から濃霧が発生して当地一帯を包みこむ現象にちなむという。戦国期に当地を領有した尾呂志氏は、室町期に熊野山中の守護として京より下った士族の子孫と伝えられ、入鹿(いるか)荘の入鹿氏などと同祖という。尾呂志氏は上野(うわの)に城を構えた。【出典

# 尾呂志荘: 江戸期の荘名。紀伊国牟婁(むろ)郡のうち。はじめ新宮藩領(尾呂志氏の知行)、慶長6年からは紀州藩領。所属した村は、矢野川・片川・川瀬・栗栖(くるす)・上野・坂本・西原の7か村(紀伊続風土記)。尾呂志氏については、天正年間に尾呂志伝蔵が新宮藩主堀内氏善家老として1500石を知行し、その子伝兵衛は文禄の役の功によって当荘7か村で1600石を知行した。しかし、関ケ原の戦では西軍についたため戦後熊野を追われて九州の田中筑前守に仕え、のち慶長11年からは津藩に仕えたという。慶長19年の熊野北山一揆には当荘からも参加者を出し、6か村が処分をうけている。上野村の長徳寺はもと宝珠山大乗寺と号し、文明年間頃に周防国竜文寺の大菴和尚の開山と伝えられる曹洞宗の寺。尾呂志氏が代々寺領を寄進し、天正年間頃に寺号を長徳寺と改めた。矢野川村の東禅寺、片川村の満蔵寺、栗須村の宝積院、西原村の西原寺はいずれも長徳寺の末寺(紀伊続風土記)。川瀬村の若一王子社(のち尾呂志神社)は、上野・栗須・川瀬の3か村の鎮守社で、ほかに矢野川村に矢倉明神社がある【出典】  

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