「次年子」の地名の由来
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■ 次年子(じねご): 山形県北村山郡大石田町

# 山形県内では、普通「じねんご」と呼びますねぇ。

# 「じねんご」ともいい、二年子とも書いた。村山地方、大高根山の北麓に位置する。南西から北東に帯状に長く、中央を次年子川が北東流し、川をはさんで耕地がひらける。地内には縄文時代の大畑山遺跡、次年子楯跡などがある。【出典

# 次年子村: 江戸期〜明治22年の村名。村山郡のうち。はじめ最上氏領、元和8年山形藩領、寛永13年幕府領、安政2年からは蝦夷地松前藩領(東根陣屋支配)。村高は、「天保郷帳」、天保13年の村山石高帳ともに323石余、「旧高旧領」325石余。幕府の延宝2年の検地により322石余、うち本田畑屋敷288石余・新田畑屋敷34石余。尾花沢附村明細帳(県史13)によれば、天明7年の家数98軒・人数512(うち男321・女191)、馬10。枝郷に小平がある。弘化2年の家数84軒・人数411(うち男261・女150)。箕つくりの村であり、慶応3年箕つくりに関する村議定を定め、村を離れた者が箕つくりに従事することを禁じている。寺院は曹洞宗青松寺(向川寺末)・真宗大谷派円重寺(専称寺末)があり、ほかに修験文珠院・仙了院があった(廃寺)。神社は白山神社・八幡神社がある。旧山形県を経て明治9年山形県に所属。明治3年の家数94軒・人数540(うち男302・女238)。同6年鷹巣学校次年子分校創立、同11年独立し次年子学校となる。同11年の一覧全図では反別145町1反余、戸数101・人口618。明治11年北村山郡に属し、同22年亀井田村の大字となる。【出典

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