徳島県内の「三好」の名字の詳細
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■ 三好(みよし): 徳島県の三好家

# 徳島県の三好家: 阿波国三好郡(徳島県池田町)をルーツとする。清和源氏の出で、源義光の子孫の小笠原家庶流。鎌倉時代に信濃国から阿波国に転じ、室町時代には阿波国有数の勢力をもった。【出典】 

・ 阿波国の戦国大名清和源氏の出で、小笠原長清の二男の長房が阿波国三好郷に住んで三好氏を称したのが祖と伝えるが不詳。 室町時代には阿波の守護細川氏の下で守護代を務めた。応仁の乱の際に、三好之長が細川成之に従って従軍したのをきっかけに、政治の表舞台に登場、1506年には細川澄元の側近として上洛、摂津半国の守護代となった。以後、澄元の家宰として幕府内でも大きな権力を振るったが、1520年に細川高国に敗れて刑死した。 1527年に之長の孫の元長が細川晴元を擁して上洛し、足利義維を擁して事実上畿内を制した。元長は山城国の守護代となったものの、後に晴元に疎んじられて自刃した。子の長慶は摂津の守護代になった後、1553年には細川晴元と将軍足利義輝を追放して三度目の幕府実権を握ると、自ら独裁政権を敷いた。その分国は山城・丹波・摂津・和泉・淡路・讃岐・阿波の七カ国に及び、四国から畿内にかけての大大名となった。1564年に長慶の没後は三好長逸、三好政康、岩城友道の三好三人衆と家宰松永久秀が対立、両者が争ううちに織田信長が上洛して没落した。一方、阿波では細川真之が反三好勢力を糾合して三好長治を討ったため、阿波三好氏はいったん滅亡。讃岐十河氏の養子となっていた長治の弟の存保を勝端城に迎えて存続させたものの、土佐の長宗我部元親の阿波侵攻の前に敗れて1582年に讃岐に逃れ、完全に滅亡した。【出典】  

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